アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(12)右手が知っていること

2017/01/11 12:03

 アニメーションには、原作のマンガにはない小さなエピソードがいくつか散りばめられているが、中でも印象に残るのは、晴美とすずのやりとりだ。

 たとえば、199月、まだまだ暑い畑で、すずと晴美が何かを収穫しており、晴美は黄色い花を手にしている。次のカットでは、カボチャに墨で顔を描いたものが本棚の前に置かれており、そばに添えられた黄色い花が色鮮やかなので、短いカットながら印象に残る。おそらく顔を描いたのはすず、花を持ってきたのは晴美で、この髪に花をかざしたような剽軽なカボチャは、二人の合作なのだろう。

 もう一つは20319日、空襲後の短いエピソード。呉港への爆撃で海には魚がたくさん浮いている。「その日、呉では魚がようけ獲れた」。すずと晴美は向かい合って皿に置かれた配給の小魚を絵に描いている。晴美が言う。「ちっさ!」。その短い形容の仕方は、かつてすずが友達に言われていた「短かー」や従姉妹に言われていた「遠-」ということばをちょっと思い出させる。「絵に大きう描いたら大きうなるけえね」とすずが言うと、晴美が珍しく足をバタバタさせてけらけらと笑う。絵コンテ集 *1 にはこのエピソードについて「原作にはないのですが、この日、空襲で呉港に魚が浮き、漁獲された事を資料で知り、その描写を加えました。」と記されている。


 では、これらのエピソードは、晴美とすずとのやりとりを増やしたり、あるいは史実に基づいた場面を描くためにあえて足されたのだろうか。じつは理由はそれだけではないとわたしは考えているのだが、例によってここからは特に作品の重要な部分に触れるので、マンガと映画をご覧になってからどうぞ。


 815日、玉音放送の日。畑に出てすずが号泣する場面で、アニメーションはこの作品のテーマに関わる重要な改変を行っている。原作では、泣き崩れているすずの頭上に、幻の右手が現れ、すずの頭をそっとなでる。すずはゆっくり顔をあげると、三点リーダー11個分呆然としてから見えない何かの気配を感じたかのように、「……………………………?」と虚空を見ている。

(図1:『この世界の片隅に』 下巻 p. 96)

 いや、正確には虚空ではない。すずの(そして、こうの史代描く女性の)特徴である一本まつげが、その微妙なカーヴの角度によって、彼女の視線の方向を知らせてくれる。すずはどうやら、画面の左手前に描かれた花を見ているらしい。これがカボチャであることは、花と葉の形状から分かる。そして、さらに注意深い読者は、すずがなぜこのカボチャの花を見て不思議に思ったかに気づいて、あわててページを繰り直すだろう。直前のページにもやはり左手前にカボチャが描かれていたからだ。見るとそこには、生気のない葉が付いているだけで、花は描かれていないではないか。つまりカボチャの花は、まるでなにものかが到来したしるしのように、顔をあげたすずの視線の先に、ふいに現れたのだ。*2

 一方、アニメーションでは、同じ場面で右手は現れない。そのかわりに、ふと顔をあげたすずの視線の先にカボチャの花が、くっきりとした黄色で描かれている。ここで、注意深い観客は思い出すだろう。同じ色の花を、一年前の晩夏に晴美が摘んで、すずと剽軽なカボチャ顔を作っていたことを。

 すなわち、アニメーションは、右手の姿を目に見える形で描くかわりに、晴美との記憶のしるしを不意にすずの眼前に現し、そのことで、目に見えない力が働いていることを表現しているのである。

 これが気まぐれな変更でないことは、原作にはないもう一つの改変部分を見ればわかる。それは同じ815日の夜、北條家で久し振りに白米を食べる場面である。伯母が感慨深げに「ああ、もうバクダン落ちんから魚も浮かんかねえ」と言うと、不意に晴美の笑い声がする。急に画面は回想となり、319日、晴美とすずが魚を描いて笑っていた場面を映し出す。すると、晴美の描いた大小の魚がアップになり、それをかきわけるように、幻の右手が伸びてきて、すずの頭をなでる。はっとすずが顔を上げると、円太郎が「なにしとんのじゃ、せっかくの白い飯が見えん」と灯火管制用の電灯カバーを外しにかかっている。

 ここでのすずの視線変化の演出は、見る者をはっとさせる。すずが顔を上げるのは、幻の右手の登場が視覚的なできごとでなく、触覚的なできごとであり、すずがその触覚の正体を目で確かめようとしたからだろう。しかし演出は、その視線の先に右手を置くかわりに、さきほどまでは暗かった灯に、明るさを咲かせる。それは、すずの眼前でカボチャの花がふいに咲いていたのに似ている。そして、いずれの場面も、晴美とすずとの思い出に関わっている。

 アニメーションがなぜこれらの原作にはない演出を行っているかは、もはや明かだろう。アニメーションは、幻の右手の登場を、晴美の記憶と強く結びつけようとしているのである。

 そのことは、すずと刈谷さんが着底した青葉のそばを通りかかる場面でいっそうはっきりする。すずが青葉の前を通り過ぎようとするとき、なぜかそこには原作には描かれていないなわとびをする子たちの姿があり、子供の声でなわとび歌が聞こえる。それと交替するように、今度は晴美の笑い声がきこえてくる。すずは言う。「晴美さんはよう笑うてじゃし、晴美さんのことは笑うて思い出したげよう思います」。このセリフも原作とは違っているのだが、ここでは「よう笑うてじゃったし」でなく「よう笑うてじゃし」であることに注目したい。すずはあたかも、晴美の笑い声が「いま」きこえているかのように現在形で「笑うてじゃし」と言っているのだ。実際、観客にはこのセリフとともに晴美の笑い声が聞こえている。

 そして、右手の描く青葉は、まさにこの晴美の笑い声とともに浮上するのである。

 このようにアニメーションでは、右手の力は晴美とともに繰り返し顕れ、それはのちに、広島の地で出会うもう一人の子供へと継がれていく。子供から子供へと継承されることで、右手の力は、二時間余の映画体験を通して、くっきりした印象を帯びる。

 では、なぜアニメーションとマンガで、右手の現れ方が異なっているのだろうか。それは、このアニメーションがリンやテルに関するエピソードの多くを描いていないことと関係がある。マンガでは、すずとリン、すずとテルとの間に、アニメーションとは異なる思い出があり、すずの右手が「かく」行為にまつわる記憶も異なっている。幻の右手が「かく」記憶に関わる存在である以上、思い出のあり方の違うマンガとアニメーションとでは、右手の登場のしかたも違ってくるのだ。このような違いは、片渕監督が、単にマンガのエピソードをそのまま再現するのではなく、右手の現れる必然性をアニメーションの限られたできごとの中で考え抜いたことの証左だろう。その意味で、アニメーションは「すずさんの視点」で描かれているだけでなく徹底して「右手の視点」で描かれているのだとも言える。

 では、マンガの右手は、どんな記憶を持ち、どんな風にこの世界に現れるのか。それは、別の機会に記すことにしよう。

*1 「この世界の片隅に」劇場アニメ絵コンテ集(双葉社)p. 693

*2 右手は、マンガの第41回、最後のコマでも画面手前に花を咲かせている。

『アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す』の一覧
(1)姉妹は物語る
(2)『かく』時間
(3)流れる雲、流れる私
(4)空を過ぎるものたち
(5)三つの顔
(6)笹の因果
(7)紅の器
(8)虫たちの営み
(9)手紙の宛先
(10)爪
(11)こまい
(12)右手が知っていること
(13)サイレン
(14)食事の支度
(15)かまど
(16)遡行


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細馬宏通
1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。声と身体動作の関わるいろんなことに興味を持っています。高齢者と介護者の声とからだの動きをとらえ直す「介護するからだ」(医学書院)、古今東西の歌のきこえ方を論じる「うたのしくみ」(ぴあ)の他、「今日の『あまちゃん』から」(河出書房新社)、「ミッキーはなぜ口笛を吹くのか」(新潮選書)、「浅草十二階(増補新版)」「絵はがきの時代」(青土社)など著作多数。最近は雑誌「ユリイカ」をはじめあちこちでマンガについての論考を書くようになりました。バンド「かえる目」では作詞・作曲とボーカルを担当。