アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(17)風呂敷包み

2017/05/12 3:20

 「この世界の片隅に」でわたしたちがまず引き込まれるのは、幼いすずが船を下り、風呂敷を背負い直す場面だろう。わたしは原作を読んだときにまずこの小さな所作を描いた3コマに引き込まれたのを覚えている。

【図1】

 1コマ目、すずは力まかせによっこらせと背負うのではなく、固い壁に風呂敷を壁に押し当てるという謎めいた所作をする。しかし2コマ目で、その所作にはちゃんと訳があって、風呂敷をちょうど肩に来るような高さに押し当てていたのだと分かる。なぜならそのコマでは、すずが自分の背中と壁とで風呂敷を落ちないようにはさんでおり、風呂敷の布の余った部分がちゃんと首の前に来て、すずはちょっとだけ壁に体重を乗せて(このコマの、足の位置の描き方が実に巧みで、胴体がわずかに壁側に押しつけられている感じが出ている)、落ち着いて風呂敷を結わえている。3コマ目で歩き出したすずの左足の下駄の裏は、この小さな一仕事を終えたあとの足取りの軽さを表しているようで、1,2コマとは対照的な動きを感じさせる。

 そして、この2コマ目の微妙な体重のかけ方を観たあとに、広島の街で電柱にもたれているすずの寄りかかるような身の預け方を観ると、いまや風呂敷から離れて所在なさげな両手の様子も合わせて、愛らしくも可愛そうでもあり、ちょっともの悲しくなる。

【図2】

 さて、アニメーション版の名場面は数々あるけれど、わたしが最初に観たときにまず引き込まれたのが、やはり同じ風呂敷の場面だった。映画の公開前、わたしは『TV Bros』にこの1カットについて次のように書いている。


 そして、そこから降り立った幼い主人公すずを描いた、原作にしてたった3コマのシーンに、わたしは早くもやられてしまったのである。

 舟を降りたすずは、岸壁の石段で、海苔を詰めた箱を風呂敷で背負い直そうとする。小さな体には扱いにくいだろうその四角いその風呂敷包みを背負うときに、すずは地面に置いてからかつぐのではなく、ごつごつした岸壁に包みを押し付け、そこに自分の背中を当て、壁と背中で包みを挟むように固定してから、風呂敷を首の前で結んでひょいとかつぐ。マンガでは簡潔なコマ割りで描かれていた幼いすずの愛らしい動きが、もう眼前で見るように、さりげなく、しかもありありとアニメートされているのだ。壁に預ける風呂敷の重み、背負った瞬間に小さな体が感じる一瞬の反動。風呂敷を扱う所作の幼さと巧みさ、背中の箱の重み、箱に収められた海苔の軽さまでが、ほんのわずかな動きによって伝わってくる。たった一つの所作から暮らしが立ち上がる。

なんと繊細な動画だろう。思わず座り直してしまった。

(TV Bros 2016年11月5日号


 この感想は、試写を一度観た記憶から書き起こしたもので、そのときの驚きが、自分で言うのもへんだが、素直に出ている。今書いてもこうは書けない。

 さてそれから半年。「この世界の片隅に」が各賞を総なめにしていくとともに、次々と上映館を増やしていき、現在も続く超ロングランを記録しているのは、みなさまご存じの通りなのだが、この5月にはその動画版が配信される運びとなった。

 わたしはアニメーション版をすでに何度も映画館で観てきたし、映画館で観る感覚は、部屋でモニタで見る感覚とは決定的に異なると思っている。思っているのだが、動画を見るともうそれがいったいなぜ自分の感覚を動かすのか知りたくて、理性よりも手が先に動いてしまうのである。そして気がつくと、わたしは配信動画をコマ送りして、コマ間の秒数を取り出し、そこにメモを書き添えるスクリプトを書いていた。このような無粋な行為はいかがなものかと思いつつも、もはや自分で自分を止めることができない。まっさきに、自分が半年前に記憶に基づいて書いたあの風呂敷の場面を、一コマ一コマ追ってみた。すると、そこにはやはりため息をつくようなアニメーションがほどこされていた。リアルタイムで観たときはわからなかった動きの論理、そしてそれを表すための、アニメーターによる細部への徹底的なこだわり。これは、実際のコマ運びに沿ってさらにきちんと考え直すべきだ。

 そこで今回は、わたしが半年前に記憶に基づいて書いたあの風呂敷の場面を、1コマ1コマ追いながら以下考えていきたい。


 話を進める前に、アニメーションの「コマ打ち」という考え方について少し解説しておく。

 劇場用のアニメーションは一秒に24コマの画でできている。といっても、24コマすべてに異なる画を描くとは限らない。2コマに1枚描く「2コマ打ち」や3コマに1枚描く「3コマ打ち」もしばしば用いられる。

 アニメーションの教科書では、24コマすべてに異なる画を描くアニメーションを「フル・アニメーション」、2コマ打ちや3コマ打ちの場合を「リミティッド・アニメーション」と定義されていることがある。また、2コマ打ちや3コマ打ちは制作コストを削減するために行われるという解説も見かける。確かに、nコマ打ちのnをどんどん大きくしていけば、描く枚数が減ってコストが下がるのは事実だ。しかし、以前、2014年12月21日に東京で開かれた『アニメーションの動きのメカニズムに関するパネル討論会』を聴きに行った折に、パネリストの片渕須直監督はこのフル/リミティッドアニメーションという区別には問題があると指摘されていた。議論の内容をすべて述べると長くなるのでいくつかポイントを書くと、

・アニメーションが滑らかに見えるかどうかは、単に画のコマ間隔だけでなく、画面上の動きが画1枚あたりどれくらいの距離を動くかによって変わる。

・アニメーション(を含む映画)を観るわたしたちの知覚には、比較的短い移動距離の動きに対して滑らかさを感じる「短いレンジ」の知覚と、長い移動距離の動きに対して滑らかさを感じる「長いレンジ」の知覚があり、二つの過程は異なっているらしい。たとえば、かつて金田伊功が得意としていた、画面上の思いがけない距離を飛ばすシャープな軽快さはおそらく「長いレンジ」の知覚で感じられており、一方、キャラクタのわずかなしぐさに感じられる滑らかさは「短いレンジ」の知覚で感じられているのだろう。

・アニメーションは、必ずしも一定のコマ間隔で作られているとは限らず、画と画のコマ間隔をワンカットの中で変化させることで多様な表現が可能である。

 ということだった*1。わたしはこの討論をきいて初めて、ワンカットの中にどのようなコマ間隔でどんな画を配置するかは、実はとてもフレキシブルで多様な技術であり、単に作品全体を2コマ打ち、3コマ打ち、あるいはリミティッドなどと呼んでは、かえって見落としてしまうことがあることに気づかされた。

 そして、風呂敷の場面では、まさにこの片渕監督の短いレンジの知覚(すずの微妙な動きはまさにこれにあたる)、そしてnコマ打ちに対する考えがはっきりと表れているのである。では、枚数にして70枚、時間にしてわずか8.4秒のできごとを、順を追って実況中継していこう。なおカッコ内の数字はこのワンカットで用いられている画の番号を表している。


 舟を降りたすずの風呂敷を背負い直す動作は、まず3コマ打ちで描かれ始める。

 風呂敷の余った布のところを両手で持ち、差し出すように壁に歩み寄る (1-5)。そして風呂敷は壁に当てられる(6)のだが、心憎いことにここで、風呂敷が下にずずっとずれるのである (7-8)。下駄に注目すると、すずは左足で歩み寄りながら壁のやや高めのところに風呂敷を当てている。ここから、あえて体重を十分に前に乗せずに下にずらせて左足の位置を決め、ちょうど背負いやすい高さのところに来たら、ちょっと体重をかけて押してやるというわけだ(9)。といっても、中身の箱は頑丈で、力を入れたからといって変形するわけではない。そこでアニメーションでは、箱の変形によって体重移動を表すのではなく、すずの風呂敷を持つ手の位置と上体の傾きとをほんのわずかに前に移動させるとともに、外側の風呂敷を少しだけ壁にそわせて、すずがしっかりした箱に対してぐっと力を入れている様子を表している(10-11)。

【図3】

 それだけではない。次の瞬間、壁に力を入れていたはずのすずの上体はほんのわずかだが、逆に後ろへそれる。この動きによって、固いものに力を入れたときに人間が感じる抗力が表現されている(12-15)。

 そしてすずは、思い直したように再び上体を前に傾げる(16)のだが、コマ送りしていたわたしはここではっとしてしまった。

 2コマ打ちになっているのである。

 コマ間隔が縮まっているだけではない。ここでのすずの動作は実に複雑かつ巧みだ。それまでは両手で風呂敷を押さえていたのだが、この瞬間、すずの右手はすばやく左へ移動する(17)。そして、下にだらりと下がった風呂敷の左側の余りをさっとつかむと(18-19)、左手で箱を押さえ、右手で風呂敷の余りをこちらに引っ張りながら、体の向きをすばやく壁向きから反対向きへと回転させる(20-24)のだ。そして、この、風呂敷史上もっとも困難な動作の最中、すずは体をねじりながらもその視線をけして風呂敷から離さない。2コマ打ちで描かれるすずの手と体の入れ替えは、包みから片手を離すという風呂敷操作にとって危うい時間を、滑らかに切り抜けて見せる。この緊迫感は原作にない、アニメーション独自のものだ。

【図4】

 そして、いよいよ体が反対向きになり、すずは背中を風呂敷包みに預け始める(25)。このとき、アニメーションは再び3コマ打ちに戻る。そしてここからはもう、すずは目で確認する必要はない。身についた感覚に従って、体重を背中にひょいと預ければよい(26-30)。風呂敷は右手と背中だけでしっかり支えられているので、左手を包みから離しても落ちることはない(28-30)。そのすきに、空いた左手で下にだらりと下がっているもう一方の風呂敷の余りを探り当て(31-32)、たぐり寄せる(33-34)。

 これで両手が風呂敷の端をつかんだ。すずは、左右の手を前にやる(35-36)。いよいよ風呂敷を結ぶところだ。ここでほんのわずかにタメを作るように、1枚だけ4コマ打ち(37)、そして胸元で結び始める微細なアニメーションは3コマ打ちで進む(38-43)。結びながら、すずの体はこれから風呂敷を背負う覚悟を決めたようにすいと伸び(44-45)、そこから今度は少し膝を曲げながら、背中にかかる荷物の重みを柔らかく受け止めつつ、上体を前に傾ける(46-52)。単純な動作だけれど、すずは6枚分使ってゆっくりと風呂敷の重さを確かめている。この動作の遅さと確かさは、その後のすずの生活のあり方をそのまま表しているように感じられる。風呂敷包みの重さと、前に傾いだ自分の重みとの釣り合いがとれたところで、すずはようやく前を向き始める(53-54)。

 さて、今度は階段だ。まずは右足から。目の前の雁木の階段はいかにも大人向けで、幼いすずの足には少し高そうに見える。すずはその高みに思い切って右足を出す(55-63)。大人なら高々と足を上げて、上から段に着地するところだろうが、すずはそうではない。右足は段の高さぎりぎりまで上がったところで、半ば下駄の歯で平らなところを擦るようにして段をとらえる(61-63)。

【図5】

 次は左足なのだが、すずはここで思い切ったことをする。左足を右足に揃えるように一段ずつ昇る「こども昇り」ではなく、左足で右足より一段高いところを目指す、大人の昇り方をするのだ。この動きの何が大変かと言えば、右足が一段昇ったのに対し、左足は一挙に二段上らねばならないのである。このすずの思い切りの変化は、左右の足のスピード差となって表れている。右足は次の段の高さまで上がるのに、6枚かかったのに(55-61)までかかったのに、左足はといえば、たった2枚で一段目の高さを越えてトップスピードになる(64-65)。そしてさらに2枚で二段目の高さまで到達してしまう(66-67)。右足の倍以上の速さだ。ここで、すずは着物姿だからその足の動きが露出して見えているわけではないのだが、着物のすそに入れられたわずか一本のしわを表す線の変化が、彼女の足の動きを見事に見る者に伝えてくれている。

 そしてこのワンカットがほぼ終わろうとするその間際にも、小さな動作のドラマが埋め込まれている。左足の急激なスピードアップで、すずは少しくバランスを崩しているのである(68-70)。左足が階段をとらえた次の瞬間、次の一歩を踏み出そうとした右足はちょっと沈み、体が小さく右に傾ぐ。あ、大丈夫かな、と思う間もなく、カットは切り替わり、それはすずがバランスをとるための微調整であり、無事に階段を昇っていく様子が遠景から映し出されている。

 このように、風呂敷を背負い直して歩き始める10秒に満たないワンカットには、すずにとっての風呂敷の重さ、雁木の壁を利用してそれを巧みに背負い直す機知、そして彼女が広島の街に踏み出そうとするその足取りの大胆さと不安定さとが、まさに動きとなってアニメイトされていたのだった。そして、それを支えていたのは、ワンカット内のコマ間隔を3→2→3→4→3と変化させながら、動作の思いがけない細やかさを観客の目に焼き付ける技法、そして、重力空間の中で重たいものを持つ小さな子どもに起こるできごとを、一枚一枚の差異に込める描画の巧みさにあったのである。

*1 これらの議論を知覚心理学の観点から詳しく解説したものに以下の論文がある。片渕監督の発言もおさめられているので興味のある方はどうぞ。

吉村浩一、佐藤荘平「映画やアニメーションに動きを見る仕組み ―― 仮現運動説をめぐる心理学的検討 ――」 (2014). 法政大学文学部紀要 69巻 pp.87-105. 

*図3-5は細馬による模写。


「アニメーション版『この世界の片隅に』を捉え直す」の一覧
(1)姉妹は物語る
(2)『かく』時間
(3)流れる雲、流れる私
(4)空を過ぎるものたち
(5)三つの顔
(6)笹の因果
(7)紅の器
(8)虫たちの営み
(9)手紙の宛先
(10)爪
(11)こまい
(12)右手が知っていること
(13)サイレン
(14)食事の支度
(15)かまど
(16)遡行
(17)風呂敷包み

こちらの記事もあわせてご覧ください。

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細馬宏通
1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。声と身体動作の関わるいろんなことに興味を持っています。高齢者と介護者の声とからだの動きをとらえ直す「介護するからだ」(医学書院)、古今東西の歌のきこえ方を論じる「うたのしくみ」(ぴあ)の他、「今日の『あまちゃん』から」(河出書房新社)、「ミッキーはなぜ口笛を吹くのか」(新潮選書)、「浅草十二階(増補新版)」「絵はがきの時代」(青土社)など著作多数。最近は雑誌「ユリイカ」をはじめあちこちでマンガについての論考を書くようになりました。バンド「かえる目」では作詞・作曲とボーカルを担当。