着飾りまくった老女は醜いですか?──『カトレアな女達』の巻

着飾りまくった老女は醜いですか?──『カトレアな女達』の巻

サザエさん』の磯野フネは、いかにもおばあさんぽい格好をしているが、実はそれほどおばあさんではない。すでに孫がいる身とは言え、まだ「50ン歳」という設定。小泉今日子や山口智子と同世代である。一般人と女優は違うといっても、髪をひっつめにして、和装&割烹着、頬にはハッキリとした法令線まで刻まれたフネ……いまの感覚からするとちょっとやりすぎ感がある。が、あれを違和感なく受け入れていた時代もあるのだ。

少女マンガの世界においても、老女を必要以上に老けさせず描けるようになったのは、ここ最近のことだと感じる。おざわゆき傘寿まり子』や鶴谷香央里『メタモルフォーゼの縁側』といった人気作に出てくる老女は、髪型や服装にやりすぎ感がなく、等身大の魅力をたたえている(どちらも2010年代後半になって発表された作品だ)。

中高年の男性をポジティヴに描くことは以前からあったが(枯れ専という言葉もあるくらいですしね)、女性については、ようやくその端緒についたばかり。これは地味だが決して看過できない進歩だ。若くてかわいいだけが正義ではない、という価値観が育ちつつあることは、女たちを「呪い」から解くことであり、端的にとてもいいことだ。

少し前置きが長くなったが、今回は、そうした経緯を踏まえつつ、老女をある種のブサイク女子として描いている作品を取り上げてみたい。松苗あけみカトレアな女達』は、まだ若くてかわいいが正義だった時代の作品である(初版は2002年)。

(『カトレアな女達』松苗あけみ)

登場するのは八重子(72歳)、花苗(70歳)、つぼみ(68歳)の三姉妹。彼女たちはかつて有名な美人姉妹であった。とくに長女の八重子と末っ子のつぼみは、ファッションフリークの超絶美人。ふたりとは違い、見た目より内面重視の花苗に対し、若い頃から「ダメよォ外見も磨かなきゃ」「キレイなお洋服が似合わない女の子なんていないわよォ」と口うるさく説教している。

若かりし頃の八重子(長女/上段左)、つぼみ(三女/上段右)、花苗(次女/下段左)

もともと地味好きな花苗は、フネのような70歳になったが、あとのふたりは、若い時のマインドのまんま老女となった。くるんくるんに巻いた髪に、ふりふりのスカート。「年相応」なんて言葉は、歯牙にもかけない。

現在の三姉妹

しかし、世間は着飾りまくりのふたりにとても冷たい。彼女たちが街を歩くだけで、ギョッとされ、逃げられ、まるで妖怪扱いだ。つぼみなんて、服装が華美だからという理由だけでお嫁さんに嫌われて、八重子の暮らす「カトレア養老園」に送られている。オシャレ老女に対する風当たり、めちゃくちゃキツいな……。

そんな世の中に決して屈することなく、あくまで自分らしく生きていこう、というのが彼女たちの信念なのだが、一度だけ、その信念を曲げる出来事が起こる。

養老園のとなりに中学校があって、飼育クラブの面々が春休みになると動物を連れて遊びに来てくれるのだが、メンバーのひとりである「徳桜くん」につぼみが惚れてしまう。ラブレターを送ったり、彼が園に来るときだけフネみたいな格好をしたり。そんなつぼみを見て、八重子は「いいかげんにしてよね抹香臭いその態度!」「まともな普通の女性に見られたいってわけ…?」「今のあんたはつぼみじゃない/ただのつまんないどこにでもいるクソ婆ァよ──っ!!」と責め立てる。八重子からすれば、この歳になって恋愛のために己の信念曲げるとは何事だコラ、ということなのだろう。その気持ちもよくわかる。

そうよ

普通にみられたい

ふくらみかけた桜のつぼみのその枝の間から

彼の存在に気がついたその瞬間から

あたし

…普通の女になりました

恋に恋する女の子になってしまったつぼみは、「普通」であることを受け入れようとする。これまでどれほど妖怪扱いされても絶対にド派手ファッションを捨てなかったつぼみが、徳桜くんのために変わろうとするこの展開は、恋愛の残酷さをはっきりと示している。これが年頃のブサイク女子であれば、好きな人のために変わろうとすることは、美談として処理される確率が高い。しかし、つぼみが「普通」を目指すことは、八重子がブチ切れるのも納得というか、ものすごい損失であるとしか思えないのだ。

このエピソードがこの先どうなるのかというと、つぼみの正体が徳桜くんにバレて、一度は大騒ぎになるものの、おばあちゃんっ子だった徳桜くんには意外に耐性があり、ふたり仲良くデートに出かけるハッピーエンドで終わっている。デートは一度きりのものであるが、とにもかくにも、ありのままの姿を受け入れてもらえたことに変わりない。

かつて「美」を誇っていた女が、いつの間にか「醜」に転じていた、という経年変化による美醜の逆転を描きつつ、しかしあくまで「醜」のよさをアピールしていく。それが本作の試みである。老いを一種の醜さとして描きつつも、それを全肯定していくパワーはどこから生まれたのだろう。松苗による巻末のあとがきには、このように記されている。

 だって私達のババアって、今までのババアと違うのよ、完全にNEW-TYPEよ! わがままで、戦争も飢えも貧しさも知らず、派手で夜遊びが好きで享楽的で着道楽で、男をだますし、おじさんからかうし、年下の男の子はもて遊ぶわ、金遣い荒いわ、子供キライだわ、家事出来んわで、しかも感受性ばっか強くて傷つきやすく、趣味にもうるさいし、音楽ないと生きられない───そんなとんでもないババアが世の中に充満するなんて!!

 ………どーです、恐ろしいでしょう? 想像するだけで頭ン中ワンワン鳴り響いたりしてきませんか? やっぱり私達はババアになんかなったりできない、意地でも根性すえて、いつまでも若い女のつもりでいなくっちゃ───!

 そう、せめてこの〝カトレアなババア達〟をみならって、ね。

戦争を経験してきたようなオールドタイプのババアにはなりたくたってなれないんだから、「意地でも根性すえて」「若い女のつもり」でいようぜ……ヤンキーマンガかと思うような気合いの入りっぷりだ(誤解のないように言っておくと、松苗はこの先輩ババアたちをものすごくリスペクトしている。自分たちが苦労知らずだからこそ、彼女たちのようになれるなんておこがましくて言えない、という立場だ)。逆に言えば、それぐらい気合いを入れなければ、老女は老女らしくあるべし的な世間のくだらない価値観を突っぱねられない時代だったということだろう。新しい時代、新しい価値観を体現する女たちは誰しも戦う女だ。どんなにオシャレしていても、気合いは十分。肩の力が抜けた老女マンガが今日あるのは、八重子たちのような先輩ががんばってくれたおかげなのである。


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