怖くない人生など、その本質を欠く……『チ。ー地球の運動についてー』と魚豊という作家のこと

魚豊チ。ー地球の運動についてー』の1巻と2巻を、興奮しながら一気に読んだ。もちろん「面白い」と言える作品なのだが、それよりは「興奮した」と伝えたい作品なのである。自分の中に眠っていた感情が目覚めるようなマンガだった。

そのへんは後述するとして、まず大枠の話を。

マンガの内容は一言でいうと、「天動説=地球は宇宙の中心であり、すべての星は地球を中心に回っている」が信じられていた時代に、「地動説=地球は他の星と共に太陽の周りを回っている(自転しながら公転している)」に気付いてしまった者たちの物語である。

舞台は15世紀のP国。この時代では、地動説は単なる学説ではなく、C教の教義に背く「異端思想」とされていた。異端思想を研究する者は拷問に遭い、それでも改心しない者は火あぶりの刑に処せられていた。
(C教は明らかにキリスト教だろう。P国はコペルニクスの出身国・ポーランドだろうか? なぜイニシャル表記なのかは解釈が分かれるところであるが、自分は「史実とフィクションのギリギリの線引きをするため」だと解釈している)

12歳にして大学進学が決まるほどの神童・ラファウは、「合理的に生きる」「合理的なものは常に美しい」が信条。世渡りが上手く、事がトントン拍子に進むので、内心「世界、チョレ〜〜」と思いながら生きている。

ある日、彼は義父の使いで、義父の知人である学者・フベルトを迎えに行く。フベルトは「禁じられた研究」をやっていたかどで異端者として捕まり、改心したことを認められて釈放されたのだった。

だがフベルトは改心していなかった。研究を続けるため、改心したフリをして出てきただけだった。異端者として二度捕まると確実に処刑されるため、「他言したら殺す」と脅すフベルトを、ラファウは危険人物だと警戒する。しかし天体観測が趣味のラファウは、フベルトに星がクッキリ見える観測地を教えられ、思わず感動する。

そこでフベルトは、ラファウに天動説の図を描かせてこう問う。

「この真理は、美しいか?」と。

「合理的なものこそ美」が信条のラファウは、本当はその美しくなさに気付いている。だが、「それをどうこう言っても仕方がない」という世俗的な合理性でその感情を抑え込んでいる。

しかし。フベルトの研究する「ある学説」を知ったことで、ラファウの物の見方は一変する。その説はあまりに合理的で、あまりに美しく、一度それを知ってしまうと、もう後戻りができないほど力強いものだった。

いま説明したのは物語のほんのさわりの部分なので、ここまでで興味を持った人は単行本を買うか、試し読みの1話を読んでみてほしい。

ここからは、なぜ自分がこのマンガに興奮を覚えたかを書いていく。

このマンガを「天動説が支配的だった時代に、地動説を唱えた人々を描いた歴史もの」として読むことも、もちろんできる。でもこのマンガが特別なのは、そことはまた違ったところにあるように思う。

たとえば、こんな場面。

ラファウは地動説の美しさを認めつつも、なぜ処刑される危険を冒してまで、フベルトが地動説の研究をするのか理解できない。「そんな人生…怖くはないのですか?」と聞くラファウに、フベルトはこう答える。

このマンガが油断ならないのはこういうところだ。「人生の真理」とも思えるような強い言葉が、コマを飛び越えて、歴史を飛び越えて、読んでいるこちら側にグサリと突き刺さってくる。

火あぶりの刑に処せられることは、単なる死刑を意味しない。肉体が灰になる……つまり、C教の教えにある「最後の審判」で復活するための肉体を失うことを意味する。そんな危険を冒してまで地動説を研究し続けることは、そのまま本人の死生観にも変革をもたらす。

平穏な人生を棒に振ってでも真理を追究する者の覚悟や死生観。それがこの物語を強くドライブさせていると同時に、読者の人生観にも揺さぶりをかけてくる。そこにこのマンガの「歴史もの」を超えた意味がある。1巻の後半でラファウが繰り広げる、生と死をめぐる問答も強く心に残る。

ところで『チ。』というタイトルについては、たぶん地動説から来ているのだろうと思っていたが、マンバの掲示板を見るとこんな意見もあってなるほどと思ってしまった。

(余談だが、地動説によって否定されたプトレマイオスの天動説でも「地球は丸い」という前提のもとに構築されていた。その一方で、現代においても「地球平面説」を信奉する人々が一定数いるというのは驚くべきことである)

ここまでで興味を持った人は単行本を買うか、試し読みの1話を読んでほしい。ちょっと気になることがあるので、コラムはもうちょっと続けます。

魚豊というマンガ家のことは、『チ。』で初めて知った。非常に感銘を受けたので、過去作も読みたいと思って調べてみたら、前作の『ひゃくえむ。』が連載デビュー作らしい。

で、さっそく全巻買って読んでみたのである。

陸上の100m走を題材にしたマンガなので、「俺そんなに陸上に興味ないしな……楽しめるかしら」と思って読み始めたら、やはりこれも一気に読んでしまった。「現代の日本が舞台の、100m走のマンガ」と「15世紀のヨーロッパが舞台の、地動説をめぐるマンガ」という違いはあれど、どこか『チ。』と通底するものがある。

明らかに通底していると分かるのは、『チ。』に「地動説(は美的にも理論的にも美しい)」というプリンシプル(原理)があったように、『ひゃくえむ。』にも作品全体を貫くプリンシプルがあるということ。

小学6年生のトガシは生まれつき足が速く、100m走では、授業はもちろん大会でも常に1位を取っていた。ある日、クラスに小宮という転校生がやってくるが、足が遅くどんくさい彼は転校初日からいじめのターゲットにされてしまう。しかし小宮はなぜか放課後いつも、倒れるほど息を切らしながら走っている。気になったトガシがその理由を尋ねると、小宮は「気が…紛れるから」という。「現実よりつらいことをすると、現実がぼやける」から走るのだと。「走るだけじゃ何も解決しないけど…」と自嘲気味に語る小宮に、トガシはこう言う。

トガシの言ったこのプリンシプルが、中学になっても高校になっても貫かれているから、物語にブレがない。そしてそのプリンシプルによって生じる「1位になれなかった者の悲哀」も描かれる。

上のコマからも分かるように、『チ。』と同様、『ひゃくえむ。』にも随所に「強い言葉」が出てくる。個人的にもっとも刺さったのは、4巻に出てくる財津選手の講演会のシーン。よくあんな強い言葉を思いつくものだと感心する。言葉が強いだけでなく、その言葉の強さを最大限に際立たせるだけの構成力も、この作家は持っているように思う。

ここまでで魚豊の作品に興味を持った人は、『チ。』からでも『ひゃくえむ。』からでもよいので読んでほしいのだが、まだ気になることがあるので、コラムはもうちょっと続けます。

ひゃくえむ。』4巻の巻末には、魚豊のデビュー作『佳作』(というタイトルの週刊少年マガジン新人漫画賞入選作)が掲載されている。

チ。』も『ひゃくえむ。』も傑作だったし、その作家のデビュー作ってどんなものだろう?と思って読み始めてみたら、「うだつの上がらない17歳の男子高校生が、仲良しの女子のすすめで無理矢理テニスをやらされ、才能が開花する」という設定のマンガだった。

「ずいぶんベタな設定だな……でもデビュー作だからこんなものなのかな」と思って読み進めていったら。

やはりこれも素晴らしい作品だった。

というか、「なるほど、このデビュー作があっての『ひゃくえむ。』であり、『チ。』であるのだな」と思える作品だった。短編の中に、やはり人生についての問答がぶち込まれている。

結果的に過去作も引っ張り出してしまったけど、『チ。ー地球の運動についてー』は1話から傑作の雰囲気がプンプン立ちこめている作品なので、ぜひ読んでみてほしい。あと『ひゃくえむ。』も。

記事へのコメント

記事読んでから表紙を改めて見たらラファウの首に縄が掛かっているのに初めて気付いた。ゾクッとしたけどめちゃくちゃカッコイイ…。

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