お江戸の人情と男と女 大和和紀『にしむく士(さむらい)』

『にしむく士(さむらい)』

 前回は海を越えて遥かイタリアまで行ってしまったが、人情と言えばやはりお江戸である。原点に返って、今回はお江戸人情を描いた女性マンガを取り上げることにした。大和和紀の『にしむく士』である。
 時は泰平の世が200年も続いた江戸後期——作者あとがきには、「池波正太郎先生の『鬼平犯科帳』のファンである。そんなワケで『にしむく士』は鬼平さんと同じ時代設定」とある。明和から寛政の時代だ。
 主人公の仲村ゆきえは19歳。将軍に仕える御徒第六番組に籍を置く仲村半四郎(21歳)の妻である。房州(いまの千葉県)佐倉の庄屋の家に生まれたゆきえは、下級武士の次男坊だった半四郎と見合いで結ばれ一粒種の太郎を授かった。2年後、半四郎は伯父のあとを継いで御徒(将軍に仕える下級武士)に仕官することなり、一家は江戸の組屋敷に引越した。

 マンガはここから始まる。
 半四郎は生真面目な性格で凝り性。剣術も水練も習字も、ひとつのことに打ち込み始めると、妻のことも子のことも目に入らなくなる有様。それなりの出世欲も持っている。
 ところが、上司で組頭の尾花兵庫からは引っ越しそうそうに「適当におやんなさい」と言われてしまう。いざ出勤してみると尾花は仕事中も寝てばかり、仕事仲間は将棋や碁で暇つぶしという有様。半四郎はすっかり意気消沈してしまった。
 一方、ゆきえはと言えば、近所付き合いや家事や育児に大張り切り。初めての江戸暮らしを楽しんでいた。貧しい下級武士の暮らしを支えるために、田舎暮らしで身につけた特技を活かして松虫や鈴虫を飼育する内職を始めたり、ときには半四郎の浮気を心配したり、派手な夫婦喧嘩をしたり、辻斬り事件に巻き込まれたり……。
 軸になるのはゆきえの日常だが、『にしむく士』を人情マンガにしているのは、先にも紹介した半四郎の上司で御徒組頭の尾花兵庫の存在だ。
 勤務中は寝ているし、非番の日は家にも寄り付かずどこかに姿を消してしまう兵庫だが、元は旗本の五男。父が侍女に産ませた庶子という理由で、幼い時から実家には身の置き所がなかったという暗い過去を持つ。心配した親友に誘われ道場に通ううちに剣の腕はめきめきと上達。親友とともに道場の継ぎを決める試合に臨むが、勝ちを譲ってしまうようなやさしい人物だ。
 姿を消している間は、ドブ板長屋に入り浸り。町人たちから「兵ちゃん。兵ちゃん」と親しまれながらのんびりと過ごしている。
 ドブ板長屋の仲間は美人のお振ちゃんと元亭主で纏持ちの佐吉、元は歌舞伎の女形でいまは陰間茶屋(男娼宿)を経営する熊三こと市川男女之丞たち。みんな江戸っ子らしい気のいい連中だ。堅苦しい武士の世界よりも兵庫にはこっちのほうがあっているのだ。

 糸の切れた凧のような兵庫をおおらかな気持ちでいつも優しく包んでいるのが、お内儀のおふくである。御徒組頭の家に生まれたおふくは、道場に通う兵庫に一目惚れ。大切な試合で勝ちを譲ったことに気づいたのが馴れ初めになって結ばれたのだ。婿養子になった兵庫との間には2人の子も産まれ、おふくはもうひとりの子どものような兵庫もふくめ家族を慈しんでいる。
 兵庫はゆきえに江戸庶民の暮らしぶりを教え、おふくは夫婦や家族とは何かを教えてくれる。ゆきえにとって兵庫とおふくは理想の夫婦像になっていくのだ。
 マンガのタイトル「にしむくさむらい」は、「士(さむらい)」を十一に見立て、31日に満たない小の月を示した言葉遊びだが、それだけではない。兵庫のある習慣にひっかけたものなのだ。
 兵庫は毎朝、江戸の西にそびえる富士山を拝んでいる。富士山は「ヤマの神」つまり奥方を意味するのだ。「にしむく士」とはつまり妻を、家庭を大事にということ。それは、武士も町人もすべての人々に通じることでもある。
 やがて、半四郎にも「にしむく士」がわかってくる。完結編で、将軍の日光参詣の供ぞろえとして街道を歩く半四郎は組頭の兵庫に富士山を指して言うのだ。
「あの方向にはウチのヤマの神がいて 大切な家族がいて いつもオレを待っていてくれる そう思うと オレはダラダラと どこまでも歩いていける気がしているんです なんの波乱もない平々凡々たる人生でも」(講談社漫画文庫版第3巻339ページ)
 ゆるやかな時間が流れる江戸の季節の移ろいの中に、現代社会にも通じる夫婦愛、家族愛を描いた人情時代劇として味わい深い作品である。

※最後に宣伝を少し。作品紹介ページで少しだけお手伝いした河出書房新社『文藝別冊 総特集 大和和紀』が先日発売されました。興味のある方は手に取ってください。
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309980324/

講談社文庫『にしむく士』第1巻13P

【えとき】
講談社漫画文庫『にしむく士』第1巻(全3巻)

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