ピアノ調律師が奏でる人情の旋律 荒川三喜夫『ピアノのムシ』

『ピアノのムシ』

 人情マンガの主人公と言えば、温厚で思いやりのある人物ばかりと思われているかもしれない。しかし、中にはエキセントリックで他人と軋轢を起こしてばかりという主人公だって混じっている。そのほうが面白いことも多い。今回紹介する荒川三喜夫の『ピアノのムシ』に登場する蛭田淳士のように……。
 タイトルだけでは、ピアニストにスポットを当てた音楽マンガを思い浮かべるかもしれないが、本作はピアノ調律師の世界を描いたマンガだ。2012年から18年まで『週刊漫画TIMES』に連載されて、単行本は13巻で完結している。
 調律師と言ってもピアノのある家庭なら年に1度くらいはお世話になっているかもしれないが、ピアノを弾いたことがない私のような者にとっては「それなんでんねん」というような職業である。
 そんな私でも、このマンガは読める。しかも、すこぶるつきに面白い。クラシックの知識なんてなくたって、読みながらついつい泣けてきて、最後には人生について深く考えさせられる。それほど、ウェルメイドな人情マンガなのである。

 主人公の蛭田は絶対音感と、ピアノに関する広範な知識、音楽センス、そして、完璧な技能を持つピアノ調律師。かつては大手ピアノメーカー・アマギに勤めていたが、ある理由で会社を飛び出し、今は社長と社員(蛭田)ふたりだけの小さな調律会社「巽ピアノ調律所」で働いている。お酒と格闘技が好きで、仕事中にウイスキーを飲んだり、格闘技観戦のために仕事をキャンセルすることも。お客に対してはズケズケと言いたいことを言い、相手を怒らせるのは日常茶飯事。しかし、ピアノを愛する気持ちだけは人一倍強い。
 とは言え、いささか人間的に問題のある主人公だけで読者の共感を呼ぶことは難しい。そこで登場するのが良き相棒だ。常識があって、理想に燃えていて、ときに極端な行動に出ることもあるが、腕もそれなりにいい相棒。
ピアノのムシ』では、調律専門学校を卒業したばかりの研修生・星野小眞(こま)がその役を任される。
 蛭田は、巽社長から星野の教育係を命じられ、嫌々ながらも彼女と行動を共にすることになる。星野も初めのうちは、蛭田の言動に反感を感じていたが、次第に彼の本当の姿に気づいていく、という展開だ。その中で彼女自身が成長していく姿がしっかりと描かれ、中盤以降はそこに力点が置かれるようになる。
 星野以外の脇役陣も役者が揃っている。中古ピアノ販売会社の社長で、蛭田の腕をお金儲けに利用しようとたくらむ鏡京二。生意気な小学生の天才ピアニスト・柏木るい。総合商社・芳友商事の環喜一会長の孫娘でアマチュアピアニストの佐奈。かつての蛭田のライバルでアマギ営業部の主任調律師・八島健人……。
 概ね1話2回の前後編で語られるエピソードは、ピアノメーカーが置かれている苦境や、日本のものづくり全般の現状、地方の音楽ホールのあり方、学校と出入り業者の癒着体質などを赤裸々に描いているが、メインとなるテーマは家族だ。
 地方で活躍する若手女流ピアニストと調律師の姉。再婚した家庭。ピアノを巡る母と娘の確執、などなど。これが作品に普遍性を持たせている。人情マンガとして紹介できるのもこれがあるからだ。

 鏡京二とその母親でかつては名ピアニストとして世界に知られた原妙子のエピソードを紹介しよう。
 引退して軽い認知症を患っている母親のために彼女が愛用したエメリッヒ(作中のドイツの老舗ピアノメーカー)のピアノを元のコンディションに戻して欲しい、と鏡が蛭田に依頼してくる。母親・原妙子はかつてカリスマピアニストとして活躍したが、突然引退。いまは軽い認知症を患っている。修復のヒントになるのは当時の調律師が書き残したノートの前半と彼女の日記だけ。
 蛭田は完璧な調律でエメリッヒをよみがえらせるが、妙子は「京二 お前のせいで 母さんのピアノは死んだ」と鏡を責める。一体、ふたりの間に何があったのか? 妙子の演奏を記録したCDをから蛭田は謎を解き明かす。
 自動演奏ピアノのロール紙(演奏を再現するためにパンチ穴が入った帯状の紙)にまつわる物語もある。一人の男がピアノロール紙を持ち込んでくる。演奏者の名前も曲名もないロール紙を調べるうち、蛭田はそれが母と息子をつなぐ大切なロール紙だったことに気づくというストーリーだ。
 環佐奈の祖父・喜一が社長時代に手に入れたベーゼンドルファーインペリアルの物語のように、ピアノに関わる人のどろどろした影の部分を描く作品もある。
 ピアノ調律だけでこれだけたくさんのドラマが生まれることに驚かされる。さらに、読むだけでピアノの構造やピアノにまつわる歴史エピソードなどのうんちくに触れることができ、知らず知らずにピアノ通にもなれる1作で2倍、3倍とお得なマンガである。

 

電子版単行本3巻86/87ページ

 

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