南信長『漫画家の自画像』から【夏目房之介のマンガ与太話 その6】

南信長『漫画家の自画像』から【夏目房之介のマンガ与太話 その6】

  南信長『漫画家の自画像』(【図1】)というむちゃくちゃ面白い本をようやく読んだ。あれこれ読まねばならない資料や本が多く、なかなか読めなかったのだ。もう洪水のようにありとあらゆる漫画家の自画像とエピソードが次から次へと書かれていて楽しい。よくまあこれだけ大量多種の資料を整理し取捨選択したなあ、ホントに南さんは幅広くマンガを読んでいて偉いなあと大変失礼な感心の仕方をしてしまった。読むにつれ知らないマンガが次々あらわれてこちらはだんだんヘコんでくるけども。

 

【図1】南信長『漫画家の自画像』左右社 2021

 

 よく勘違いされるが僕はそれほど幅広くマンガを読んでいないし、雑誌もあまり目を通していない。だから作品選びは結構恣意的で狭い。南さんは僕よりはるかに多くの漫画を読み、かつそれを誰でもわかる面白い形で書ける貴重な書き手なのである。何よりも行間からとてつもないマンガ愛が立ち昇ってくる。『漫画家の自画像』は、帯にあるように、膨大な戦後マンガを60年代から2020年代まで年表化し、歴史的にも見ようとしている。終わりのほうで漫画家マンガは〈巻末の一覧表にもあるとおり、筆者が把握しているだけで400超の作品がある。特に2000年代以降の増殖ぶりはすさまじい。〉*1とあるのだが、たんにマンガの出版全体の点数が増えたせいなのか、他に理由があるのかはわからない。

 というわけで今回は、本書中の矢口高雄の挿話から話を始めてみたい。デビュー前の矢口が水木プロで励まされ、かつ当時水木プロでアシスタントをしていたつげ義春池上遼一に作画技術を教えてもらうという、とんでもなく歴史的な場面である。

 60年代後半の当時、すでに貸本作家として長い実績があり、「月刊漫画ガロ」(青林堂 1964年創刊)刊行初期に白土三平が声をかけ、傑作短編を同誌に描いていたつげ義春は、いわば助っ人的に不定期で水木プロに身を寄せていた。また「ガロ」の新人投稿で66年にデビューした池上が同時期にアシスタントをしていたのは、業界では有名な話である。が、漫画家をあきらめて故郷秋田で銀行員をしていた27歳の矢口高雄が、原稿を「ガロ」で没にされ上京、水木プロに回ってこんな体験をしていたことは、あまり知られていない。南信長はこう書いている。

 〈[矢口は]水木に「キミの絵にはなかなか魅力がある!!」とほめられる。一方で効果線などのマンガの基礎技術ができていないと指摘されるのだが、そこでスクリーントーンの貼り方を指導してくれたのがつげ義春[147]効果線の引き方を教えてくれたのが池上遼一[148]豪華すぎてめまいがする顔ぶれである。〉*2

 

【図2】前掲『漫画家の自画像』P.53

 

 後になってみれば、まことにその通り。水木プロには、他にも谷口ジローが見学に行ったとも語っており、この時代の漫画家志望者はけっこうアクティブにプロを訪ねている。宮谷一彦大島弓子など、マンガ青年には有名だが、当時まだベテランではない作家たちにも、多くの同世代マンガ愛好者が訪ねに行っている。そこにはお互いマンガを愛好する同世代若者だという(少し甘えた)仲間意識があったと思う。僕はそういうことをできない人間だったが、阿佐ヶ谷の喫茶店ぽえむで永島慎二待ちをしていた若者も多かったはずだ。彼らのほとんどは幸か不幸か漫画家にならずに、どこかで今も生きているのだろう。

 しかし何せ絶対数の多い世代ゆえ、僕のように諦めきれず漫画家を目指す者もまた多かった。その流れが、僕はやはり参加していないが「COM」の読者欄全国組織に参集し、マンガ青年の共同体を形成。「COM」休刊後運動化し、やがてこの世代より十歳ほど若い世代を巻き込むコミックマーケット設立(1975年)へとつながることとなる。

 ところで、矢口の記事を読んだ元マンガ編集者の同世代者が「あっ! だからヤクルトの容器が漫画家んとこにあったのか。そういえばトーン貼りに使ってた。表面の印刷がはがれるまで使って、飲み口の端を使ってトーン削ってる人もいたな」とえらく感心していた。果たしてヤクルトの容器が「最高」なのかどうかは不明だが、少なくとも手になじむ大きさだったのだろう。こんな「技術」が60年代後半にはすでに業界で習慣化していたらしい。

 定規を使った大量の効果線は、まさに同時期の劇画表現が洗練し業界に定着させた技術で、さいとうプロの園田光慶がその先端モードを実現した張本人だった。彼の効果線を僕らマンガ青年も真似し、効果線の練習が漫画の描き方本にも載るようになる。

 

【図3-5】貸本マンガ園田光慶『アイアンマッスル 殺し屋ナポレオン』65年 表紙 P.83 P.40 当時画期的で瞬く間に流行した「劇画」的表現、定規で描いた大量の効果線。一般に普及させたのは、園田と親しかった『巨人の星』の川崎のぼるだったかもしれない。

 

 この頃の水木プロの場合、まさに漫画家のプロダクション化が進む時代の現場であり、アシスタント制が成立してゆく瞬間なわけだが、それ以前から同様の作業は行われていた。さいとうプロでは川崎のぼる南波健二園田光慶などがさいとう作品を手伝っていたが、彼らの位置付けはまだ「弟子」だった。ただし川崎を弟子と見ているのはさいとうで、川崎自身は「弟子」ではなく、ただ手伝っただけだと言っており、南波は弟子を自称している。

 彼らの多くはかつて貸本雑誌や漫画雑誌に投稿してきた素人で、漫画家になろうと決意すると出版社に持ち込みを行い、やがて縁のできた漫画家の元で修行したりアシスタントをしたりしていたと思われる。多くの場合、その先生の紹介や出入りの編集者の引きでデビューしてゆくのである。その過程で、上記のような「技術」も習得し継承されるようになるのだろう。

 では、投稿、持ち込み、出版社の紹介や引きといったプロへ進むプロセスは、いつ頃からあったのだろうか。一体、どのあたりで報酬が発生し、プロと見なされるようになるのか。漫画家を成立させる社会経済的基盤をなすこの重要な問いを、次回以降追及していくかもしれないのだった。

 

【図6-7】さいとうプロダクション『ビッグマガジン No.2 劇画』秋田書店「まんが王」1970年2月号付録 表紙と「ペンのつかいかた」の”斜線の練習“(P.16)。早い時期のマンガの描き方本における斜線練習の記事。

 

  • *1 ^ 『漫画家の自画像』P.262-263。
  • *2 ^ 同書P.52。 [ ]は引用者。

 


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記事へのコメント

>この時代の漫画家志望者はけっこうアクティブにプロを訪ねている

歴史だな〜と一瞬思ったが、今も皆Twtter凸とかしてるよな…とか考えるとこういう交流って意外と現代の方が活発と言えるのかもしれない

なるほど、そういう見方もありえますね。ただ、多くの場合突然尋ねちゃったりするんで、それがまだ許される時代だったともいえますね。迷惑な話ですが。

漫画家の自画像を集めて、通史するという発想!
コミックスのカバーに書いてある文章とか、雑誌巻末のコメントとか面白かったなあ。ハチワンダイバー柴田ヨクサル先生のコメントが心に残ってます。先生はもしオリンピックに出られるとしたら何の競技がいいですか→漫画
毎回漫画のことしか答えてなくて面白かった!

いや僕だって似たことは思いつきますよ。だけど、実際頭の中で考えただけで、その分量の多さ、多様さに、普通はすぐ匙を投げるんだと思います。考えただけでくらくらする。

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