山を舞台にした人情マンガ 石塚真一『岳』

『岳』

 梅雨明けから8月末までは夏山シーズン。お盆休みを利用して登山やトレッキングを楽しむという人も多いだろう。
 今回取り上げる人情マンガは山のマンガ。石塚真一の『岳(がく)』である。小学館の『ビッグコミックオリジナル』で2003年19号から2012年12号に『岳 みんなの山』のタイトルで連載。単行本は18巻で完結している。
 小説の世界には、山岳小説というジャンルがあり、『八甲田山』など数多くの作品を残した新田次郎が長年その山頂にいた。マンガの世界でも山岳マンガはひとつのジャンルを形成している。村上もとかの『岳人(クライマー)列伝』や遠崎史朗/原作・谷口ジロー・作画の『K(ケイ)』、塀内夏子の『イカロスの山』、紅林直の『山靴よ疾走れ!』……。
 その中で、『岳』はこれまでありそうでなかった人情山岳マンガだ。
 主人公の島崎三歩(さんぽ)は長野県の北アルプスを中心に活動する民間救援ボランティアだ。住所なし。住んでいるのは山。生粋の山男だ。ヒマラヤや南米の山に単独で登り、アメリカのワイオミング州ティートン国立公園で山岳レスキューの仕事をした経験を持つ。このあたりは、アメリカ留学中にロッククライミングの魅力を知ったという作者・石塚の経歴とも重なる。
 相棒の椎名久美(クミ)は長野県警北部警察署山岳救助隊の新米隊員。山はあまり好きではなかったが、チーフの野田正人や三歩に助けられながら仕事を続けるうちに山岳救助隊員として成長していく。
 そのほかのわき役陣には民間山岳救助会社・燕レスキューの牧英紀や同社のヘリコプターパイロット・青木誠らがいる。
 とは言え、本作が描くのは、伝説のクライマーの冒険譚や超人的な登山テクニックではない。困難な山岳救助や山の事件解決に挑む手に汗握る物語も、ないわけではないが、ほとんどない。

 描かれているのは、日頃は下界で平凡な暮らしを送っている人々が、何を求めて危険と隣り合わせの山に入り、何を頂(いただき)に見出すのかということ。つまり「人はなぜ山頂を目指すのか」という山の根源的なテーマを追うことで、背景にある人情ドラマに迫っていくのだ。主役はあくまでも山を愛する市井の人々なのである。
 第1巻冒頭の第0歩「お家」の主役は、冬の北穂高岳で遭難したまじめだけが取り柄の中年サラリーマン氏。会社ではうだつが上がらず、不況で給料も下がり始めている。昇進するしかない、とやる気にはなったが、同期はおろか後輩にも追い越される始末。
 北穂高岳にひとりで登ったのは、昇進の願かけのため。ところが、下山中に道に迷い、稜線から滑落し、腕を骨折してしまったのだ。三歩は動くことのできない状態で発見した男を、稜線の上に吊り上げて助けた。
 命拾いをした男は、昇格してマイホームを持ちたい、という夢を三歩に語る。マイホームでいつかのんびり暮らしたい、と。それを聞いた三歩は「ほら見えた、マイホーム」と自分のテントを指さす。そして、ファンタスティックな山の夕日を男に見せたのだった。
 ほかのエピソードでも、主に描かれるのは三歩やクミたちに救われるクライマーたちの内面だ。
 遭難して、死の恐怖に怯えながら助けを待つ孤独な時間に、クライマーたちは自分の過去の姿と自分の本当の心に向き合う。それが、なぜ山に登るのか、という問いの答えにも繋がる。ある者は大切な人との思い出のために、ある者は誰かとの約束を果たすために、ある者は何かを忘れるために、ある者はさがしていたものに出会うために……。本当にいくつもの理由があって、本人にとってはひとつひとつが切実だ。出世やマイホームだって、本人にとっては切実な問題なのだ。

 常に生死の境に出会う仕事をする山岳救助隊員の悩みや葛藤も描かれている。
 遺体を少しでも早く遺族のもとに帰すために、さっきまで生きていたクライマーを谷底の雪渓に落とす場面には、それが最善の策だとわかっていてもゾクリとなった。また、遺族に詰め寄られた三歩が、静かに頭を下げる場面にも涙が出た。山という極限状態では、生と死の境目はそれほどにシビアなのだ、と知ると、下界でも生と死の問題をおろそかいはできない、と感じる。
 最後にお気に入りのエピソードを紹介しよう。第5巻収録の「あの一杯」だ。
 脱サラして小さな珈琲店を経営する海藤は「自分の一杯」を求めて春の北アルプスの燕岳に入った。さまざまな味の試行錯誤を繰り返すうちに生じた迷いを捨てるためだ。しかし、下山の途中で道に迷ってしまった。
 春山の天候は変わりやすい。穏やかだった山も夜には雪が降りだし、朝になると山は真冬の形相になっていた。雪の中を何日もかけて下山し、森林限界まで降りた海藤だったが、三歩に救われたときには雪の中で気を失っていた。
 寒さの中で歯を食いしばり続けて口が開かなくなっていた海藤のために、三歩はコーヒーをいれた。海藤は「自分のコーヒーが見つかったら、最初に飲んでもらいたい」と約束した。
 そして3年後の春。海藤は三歩を店に招いた。ようやく完成した「自分の味」ツバクロブレンドを最初に味わってもらうためだ。カウンターでカップを口にした三歩は「うんまいな〜、このコーヒー。コーヒー以上の味がする」と笑顔を見せたのだった。

 

第5巻 48〜49ページ

 

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