同時代の世界のマンガの中の『正チャンの冒険』【前編】

原作:小星(織田信恒)、作画:東風人(樺島勝一)『正チャンの冒険』を読んだことがあるという人はどれくらいいるだろうか? 『正チャンの冒険』は大正12年(1923年)1月25日に誕生した作品で(最初の掲載誌は『日刊アサヒグラフ』)、今年2023年1月、連載開始からなんと100年を迎えた。当時からマンガはすっかり様変わりしたし、そもそもマンガというと、日々生み出される新しい作品を読むことが多いだろうから、『正チャンの冒険』のような古いマンガを読む機会はなかなかないかもしれない。文学作品なら、100年以上前の古典が、今でも文庫で手軽にアクセスできたりするが、不思議なことにマンガだとなかなかそうもいかない。現時点で一番入手しやすい『正チャンの冒険』の単行本は2003年刊の小学館クリエイティブ版だと思うが、それだってなんと早20年前の本である。幸い今年2023年の秋には、生誕100年を記念した新装版が刊行されるそうなので、その機会に多くの人の目に触れることを期待したい。

小学館クリエイティブ刊『正チャンの冒険』
作/織田小星、画/樺島勝一『正チャンの冒険』(発行:小学館クリエイティブ、発売:小学館、2003年)

「正チャン100周年」ということで、この企画ではさまざまな関連記事が公開されている。『正チャンの冒険』そのものに焦点を当てた論考は、筆者がこの文章を執筆している時点では、以下の5つだ。

いずれも、現代に生きる私たちには正直あまりなじみがないと言わざるをえない『正チャンの冒険』という作品について、さらには作者や時代、当時マンガが置かれていた状況について、さまざまなことを教えてくれるすばらしい記事なので、ぜひ読んでみていただきたい。

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上述の記事で夏目房之介さんと新美琢真さんが記しているように、『正チャンの冒険』は、海外のマンガの影響下に生まれた作品とされている。

その辺については、竹内オサムさんの過去の論考に詳しい。『正チャンの冒険』は当初、当時創刊されたばかりの日刊グラフ誌『アサヒグラフ』に大正12年(1923年)1月25日から9月1日まで連載されたのだが、その『アサヒグラフ』の編集委員だった鈴木文史郎が、誕生の経緯について、「漫画は世界の言葉」(『文藝春秋』昭和25年5月)という文章の中で回想している。それによると、『正チャンの冒険』は、「当時ロンドンのタブロイド新聞「ミラー」にのっているペンギン鳥を中心とした連続漫画が馬鹿におもしろいので、それからヒントを得てペンギンの代わりにリスそれに「正ちゃん」という幼年を加え」て生まれたのだという。竹内さんはその『正チャンの冒険』のヒントになったというマンガを、イギリスの新聞『Daily Mirror』で1919年から連載されたA. B. PayneによるPIP, SQUEAK AND WILFREDではないかと推測している(「4章 小星作・東風人画―「正チャンの冒険」・異国ファンタジーとその読者」、竹内オサム『子どもマンガの巨人たち―楽天から手塚まで』三一書房、1995年や竹内オサム「「正チャンの冒険」の変容過程―初出作品の検討と単行本化の問題―」『マンガ研究』vol.11、ゆまに書房、2007年など)。

 

PIP, SQUEAK AND WILFREDについては、新美琢真さんが上述の記事で図版を掲げて紹介している。実は『正チャンの冒険』連載開始から数年後の昭和2年(1927年)、『小学生全集23巻 児童漫画集』(興文社/文藝春秋)に「ピップとスクィークとウィルフレッド」というタイトルで、3ページ分訳載されたのだ。ちなみにこの本には他にもいくつか海外マンガの翻訳が掲載されていて、その選者を務めたのが、他ならぬ『正チャンの冒険』の原作者・織田小星だった。

小学生全集23巻 児童漫画集
『小学生全集23巻 児童漫画集』(興文社/文藝春秋、昭和2年)
ピップとスクィークとウィルフレッド
「ピップとスクィークとウィルフレッド」(:『小学生全集23巻 児童漫画集』P126-127)

それではこのPIP, SQUEAK AND WILFRED(以下、『小学生全集23巻 児童漫画集』の翻訳に倣って『ピップとスクィークとウィルフレッド』と記す)とはどんな作品なのだろうか?

『ピップとスクィークとウィルフレッド』は、イギリスの日刊紙『Daily Mirror(デイリー・ミラー)』上で、1919年5月12日に誕生した。当初は雄の雑種犬ピップと雌ペンギンのスクィークが主人公だったが、1920年2月7日からウサギのウィルフレッドが仲間に加わる(連載の初回とウィルフレッド初登場回をこちらで読むことができる)。彼らはもともとディックおじさんと彼の女中のアンジェリンという人間に面倒を見てもらっていたのだが、やがて自分たちの家を構えることになる。物語はそんな彼らを中心とした動物や人間たちのささやかな日常を描いていく。

本作の原作者は『デイリー・ミラー』で児童欄を担当していたバートラム・J・ラム。彼こそが3匹の保護者ディックおじさんに他ならない。作画担当はオースティン・ボーエン・ペイン。ラムが1938年に亡くなってからは、彼のアシスタントを務めていたジョン・フリーマンが原作を引き継いだ。1940年には第二次世界大戦の影響で連載が中断。再開されたのは、第二次世界大戦が終わってしばらく経った1947年になってからだった。その後、作画のペインが1953年に引退すると、作画担当がヒュー・マクラレンドに交代。最終的に『ピップとスクィークとウィルフレッド』は、1955年に完結している。

1990年にイギリスで出版された復刻選集
1990年にイギリスで出版された復刻選集。The Nostalgia Collection: PIP, SQUEAK & WILFRED, Hawk Books, 1990

『ピップとスクィークとウィルフレッド』は、もともと1コマのマンガとして始まったが、やがて4コマになり、最終的には6コマが基本単位になったようだ。『小学生全集23巻 児童漫画集』の日本語版でも確認できるが、コマの内部にフキダシがあり、加えてコマの下にナレーションがついているのが特徴である。コマ内のフキダシとコマ外のナレーションを併用した形式は、『正チャンの冒険』と共通している。

The Nostalgia Collection: PIP, SQUEAK & WILFRED
The Nostalgia Collection: PIP, SQUEAK & WILFRED, P9

主人公は犬のピップとペンギンのスクィーク、そしてウサギのウィルフレッドだが、とりわけ人気だったのはウサギのウィルフレッドだったらしい。鈴木文史郎の回想ではペンギン(スクィーク)が強調されているが、改めてウィルフレッドに着目してみると、正チャンのお供のリスにその面影が感じられる気がしなくもない。

1927年には、そのウィルフレッドの口癖を冠した「The Wilfredian League of Gugnuncs」(GugとNuncというのがウィルフレッドの口癖)というファンクラブが創設された。盛時にはなんと10万人もの会員を誇ったとのこと。1921年にはアニメ化され、25編の短編アニメが作成されたと記録されている。当然、書籍化もされ、その他、ボードゲームやグリーティングカード、磁器製品、リボン、ハンカチ、ぬいぐるみなどのグッズも作成された。

コマ内のフキダシとコマ外のナレーションの併用という形式面といい、当時の人気ぶりといい、『ピップとスクィークとウィルフレッド』と『正チャンの冒険』にははっきり共通点が認められる(『正チャンの冒険』の人気ぶりについては、新美琢真さんの「『正チャンの冒険』とは【後編】」を参照のこと)。『ピップとスクィークとウィルフレッド』は1919年にイギリスで誕生し、『正チャンの冒険』は1923年に日本で誕生した。今から100年昔の1920年前後に、わずか数年の時間差で、このようによく似た作品が世界の両端で誕生し、それぞれ人気を博したというのだから興味深い。イギリスにせよ日本にせよ、送り手である新聞社や作者の側にこのような子供向けの作品を提供しようという機運があり、受け手である読者がそれを待望している状況があったからこそ、このふたつの作品は社会現象と言っていいほどの人気を博したのだろう。

 

後編は5月25日公開予定です!お楽しみに!!

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