第16回 今なお解決しないパレスチナの泥沼を描いた傑作―ジョー・サッコ『パレスチナ』

第16回 今なお解決しないパレスチナの泥沼を描いた傑作―ジョー・サッコ『パレスチナ』

今年2023年1月、ジョー・サッコ『パレスチナ特別増補版』(小野耕世訳、いそっぷ社)が刊行された。もともとは2007年に同じ小野耕世訳でいそっぷ社から出版されていた作品だが、ここ数年品切で古本でしか買えない状態が続いていた。前々回紹介したリチャード・マグワイア『HERE ヒア』(大久保譲訳、国書刊行会、2016年)もそうだが、この作品も、いつでも手軽に読めるようになっているべき世界マンガの傑作である。

 

ジョー・サッコ『パレスチナ特別増補版』(小野耕世訳、いそっぷ社、2023年刊)

 

「特別増補版」ということだが、マンガ本文については、2007年版から変更はない。今回増補されたのは、作者ジョー・サッコの「『パレスチナ』についての想い」という文章と、訳者小野耕世の「『パレスチナ』特別増補版に寄せて」という文章である。旧版を持っていて、マンガの部分だけ読めればそれでいいという読者であれば、わざわざ買い直す必要はないかもしれない。

もっとも、本書を過去に読んで感銘を受けた読者なら、この文章のためだけに本書を買い直しても損はないだろう。「『パレスチナ』についての想い」には、本書執筆のきっかけから取材方法、創作過程、さらにはボツページまで、『パレスチナ』をさらに楽しむための情報が30ページにわたって掲載されていて、非常に貴重な資料となっている。

かく言う筆者もこの特別増補版を買い、久しぶりに『パレスチナ』を読み直した。今回はこの作品を紹介することにしよう。

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パレスチナ』の原書は、1993年2月から1995年10月にかけて、全9冊のコミックブック(20~30ページ程度の冊子)としてアメリカのファンタグラフィックス・ブックスから出版された。その後、1996年に全2冊の単行本にまとめられ、2001年には全1冊の完全版が、2007年にはやはり全1冊の増補版が刊行されている。今回の『パレスチナ特別増補版』が底本にしているのは、2007年の増補版である。

作者のジョー・サッコはアメリカの大学でジャーナリズムを学んだのち、1991年末から1992年初頭にかけて、単身パレスチナを訪問した。1987年末に始まった第一次インティファーダと呼ばれるパレスチナの暴動がまだくすぶっていた時代のことである。先述の「『パレスチナ』についての想い」によると、当時、アメリカにおけるパレスチナ報道はイスラエル寄りの偏ったもので、およそ納得できるものではなかった。義憤に駆られた彼は、アラビア語ができるわけでもないのに、単身パレスチナに乗り込み、パレスチナ問題の実態に迫るべく、2カ月間にわたって取材を敢行する。その成果が本書『パレスチナ』である。

 

パレスチナのナブルスを訪れる作者

 

そもそもイスラエルとパレスチナの紛争が始まったのは、1948年のこと。その年、イスラエルが建国され、そのことに反対するアラブ諸国との間に第一次中東戦争が勃発。70万人ものパレスチナ人が住居を失い、ヨルダン川西岸地区やガザ地区、さらには隣国へと避難することになった。こうして生まれたのがパレスチナ難民である。その後、1967年の第三次中東戦争で、イスラエルはそれまでエジプト領だったガザ地区と、ヨルダン領だった東エルサレムおよびヨルダン川西岸地区を占領する。1980年頃からはガザ地区やヨルダン川西岸地区で、パレスチナ人の土地を奪い、そこにイスラエル人が入りこむ入植が活発化する。

1987年12月6日、ガザ地区で、イスラエル軍のトラックがパレスチナ人のバンと衝突し、パレスチナ人が4人亡くなるという事故が発生。この事故が直接的なきっかけとなり、パレスチナ人の積年の怒りがついに爆発する。彼らはイスラエル兵に石を投げ、抵抗の意を表明。やがてそれがパレスチナ全土にひろがっていった。いわゆる第一次インティファーダである。ジョー・サッコパレスチナを訪れたのは、それから4年後の第一次インティファーダ終盤のことだった。

 

イスラエル兵に投石するパレスチナ人

 

本書のマンガ部分を読み始めると、何よりもその圧に驚かされる。アクの強い絵柄。人口密度の高い空間。魚眼レンズを思わせる画面の歪み。コマを埋めてしまいかねないフキダシ。言葉の洪水……。とにかく圧が強い。

全9章の物語は、その大部分が複数の細かな節に分かれていて(例えば、第1章は「カイロ」、「行きあう人々」、「故郷」、「目撃者の目」、「キドロン・ヴァリー」から構成されている)、新たな節が始まるたびに場所や登場人物が変わり、目移りする。節によって物語の語り方もさまざまで、自由なコマ割りが採用されている節もあれば、画一的なコマ割りの節も、文章を中心にイラストを散りばめた絵物語風の節もある。

 

圧の強さが感じられる作品の1ページ目

 

当然、読みやすくはない、というかぶっちゃけ読みにくいわけだが、これが言葉もわからず、頼る人もない状態で単身パレスチナにやってきた作者の不案内や不安、当惑を表現しているのだとしたら、非常に優れた演出だと言わざるをえない。彼は英語を使いながら(「『パレスチナ』についての想い」によると、作者はマルタ島出身で、アラビア語に近いマルタ語も使っていたらしい)、多くの場合、素人の通訳に頼りつつ、たどたどしいコミュニケーションをしていかざるをえないが、読者はそれを臨場感たっぷりに追体験していくことになる。

最初のうちこそ作者は、これでオレもいっぱしのジャーナリストだと悦に入るが、そんな自己満足も長続きはしない。何しろ暴力に監禁、拷問、殺人、侮辱などなど、気が滅入る話のオンパレードである。パレスチナ人の話を聞けば聞くほど、彼らが直面している問題の根深さ、そして出口のなさが痛感され、やがてジョー・サッコは彼らの話に辟易してしまう。

ジョー・サッコはイスラエル最大の都市エルサレムを拠点に、多くのパレスチナ人と出会い、彼らの体験談に耳を傾け、時には小競り合いの現場を自ら目撃したりもする。まずはヨルダン川西岸地区、続いてガザ地区と、パレスチナ各地を訪れる彼の旅は、やがて地獄巡りの様相を呈していく。本書の冒頭に、『オリエンタリズム』などの著書で有名なパレスチナ系アメリカ人の思想家エドワード・サイードの「ジョー・サッコを讃える」という文章が据えられていて(ジョー・サッコは『パレスチナ』のあるページで、サイードの『パレスチナ問題』が、彼がパレスチナを訪れることにしたきっかけのひとつだと明かしている)、その中でサイードはジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』を想起しているのだが、それも決して伊達ではない。

本書にはしばしばぬかるみや土砂降りが描かれるのだが、パレスチナ人が置かれた泥沼的な状況を暗示しているようで、実に印象的だ。作者はぬかるみに足を取られ、土砂降りに降られ、時にこの取材を続けることの意味を見失いながら、それでも取材を続けていく。

 

作者はぬかるみのパレスチナを進む(P150-151)

 

本作の連載が始まってしばらく経った1993年8月、オスロ合意が結ばれ、イスラエルとパレスチナの間で、和平に向けた貴重な一歩が踏み出された。この合意によって、イスラエルはパレスチナ解放機構をパレスチナ自治政府として、パレスチナはイスラエルを国家として承認したが、最終的にイスラエル・パレスチナの紛争が終結しなかったのは周知の通りである。2000年には第二次インティファーダが始まり、自爆テロなどによって、第一次インティファーダ時以上に多くの命が犠牲になり、2002年にはヨルダン川西岸地区とイスラエルを隔てる分離壁が建設され始めた。2008年、2012年、2014年、そして2021年には、イスラエルがガザ地区に侵攻し、つい最近、2023年5月9日から10日にかけても、ガザへの空爆が行われたところである。

本書『パレスチナ』が世に出て早30年が経つが、イスラエル・パレスチナ紛争は未だに解決の糸口を見出せず、本書はその意義をいささかも減じていない。むしろ昨年来のロシアのウクライナ侵攻で、戦争やそれに伴う人権侵害がおよそ他人事とは思えなくなっただけに、改めて本書は凄みを増したのではないかと思う。まだ読んでいない人がいれば、このタイミングでぜひ一読をオススメしたい。

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イスラエル・パレスチナ紛争に関しては、他にも2冊日本語で読める海外マンガがあるので、併せてオススメしておこう。

まずは『パレスチナ』の作者ジョー・サッコが序文を寄せているナージー・アル・アリーの『パレスチナに生まれて』(露木美奈子訳、藤田進監修、いそっぷ社、2010年)。作者のナージー・アル・アリーは1937年にパレスチナに生まれ、南レバノンの難民キャンプで成長したのち、クウェートで活躍し、1987年にロンドンで暗殺された風刺マンガ家。本書は彼のカートゥーンを集めた作品集で、第1章がずばり「パレスチナ」をテーマにしている。

もうひとつは、イスラエルの小説家エトガル・ケレットとイスラエルのイラストレーター・マンガ家アサフ・ハヌカによる『ピッツェリア・カミカゼ』(母袋夏生訳、河出書房新社、2019年)。イスラエル・パレスチナ紛争を直接的に扱っているわけではないが、自殺者たちが集う死後の世界を描き、現代のイスラエルの精神性を寓意的に表現した興味深い作品である。自殺者の中にはアラブ人もいて、第二次インティファーダ以降の自爆テロで自ら命を絶ったのか、顔の半分の皮膚を火傷で失っている。

 

左がナージー・アル・アリーの『パレスチナに生まれて』(露木美奈子訳、藤田進監修、いそっぷ社、2010年)、右がエトガル・ケレット&アサフ・ハヌカ『ピッツェリア・カミカゼ』(母袋夏生訳、河出書房新社、2019年)

 

なお、筆者が編集主幹を務める、世界中のマンガをクラウドファンディングで翻訳出版するレーベル「サウザンコミックス」では、ちょうど今、イスラエルの最も重要なマンガ家のひとりルトゥ・モダンの最新作『トンネル』を翻訳出版するためのクラウドファンディングを6月27日(火)まで実施中である。本書はイスラエル人のシングルマザーを主人公に、十戒が収められた「契約の箱」探しという冒険を軸に据えつつ、パレスチナとの紛争はもちろん、それ以前から延々と続く歴史の積み重ねの上に立つイスラエルという国の今を描いた傑作である。本書が翻訳され、今回紹介したジョー・サッコパレスチナ』やナージー・アル・アリー『パレスチナに生まれて』、エトガル・ケレット&アサフ・ハヌカ『ピッツェリア・カミカゼ』などと併せて、日本の読者に読まれることを願ってやまない。よかったらぜひサイトで詳細をご確認いただきたい。

 

ルトゥ・モダン『トンネル』。翻訳出版目指して6月27日(火)までクラファン中

 

 

 


筆者が海外コミックスのブックカフェ書肆喫茶moriの森﨑さんと行っている週一更新のポッドキャスト「海外マンガの本棚」でも、2023年6月9日更新回で本書『パレスチナ』を取り上げている。よかったらぜひお聴きいただきたい。

 

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