第17回 人生の美しさと残酷さを鮮やかな色彩で描く―マヌエレ・フィオール『秒速5000km』

第17回 人生の美しさと残酷さを鮮やかな色彩で描く―マヌエレ・フィオール『秒速5000km』

ついにマヌエレ・フィオール秒速5000km』(栗原俊秀ディエゴ・マルティーナ訳、マガジンハウス、2023年5月31日)の日本語版が発売された。今やイタリアを代表するマンガ家のひとりとなった作者が、それこそ世界で注目されるきっかけとなった作品である。マヌエレ・フィオールは、伊坂幸太郎『クリスマスを探偵と』(河出書房新社、2017年)の挿絵で既に日本デビューを果たしているから、そちらの仕事で彼のことを既に知っていたという人もいることだろう。

 

マヌエレ・フィオール『秒速5000km』(栗原俊秀、ディエゴ・マルティーナ訳、マガジンハウス、2023年)

 

本書はもともとスイスの出版社アトラビル(Atrabile)から2010年にフランス語で出版された。その後すぐにイタリアのココニノ(Coconino)から作者の母語であるイタリア語版も刊行され、翌2011年にはフランスのアングレーム国際漫画祭で最優秀作品賞を受賞。マヌエレ・フィオールはそれ以前から作品を発表していたが、この受賞で一気に脚光を浴びたという印象である。

かく言う筆者もアングレーム国際漫画祭最優秀作品賞受賞でこの作品および作者を知った口で、瑞々しい表紙絵につられてさっそくフランス語版を取り寄せ(本書にはいろんなヴァージョンがあるが、日本語版は最初のフランス語版を踏襲している)、たちまち虜になった。

こいつは是が非でも翻訳しなければならんと、さまざまな出版社に持ち込み、筆者が監修を務めた『はじめての人のためのバンド・デシネ徹底ガイド』(玄光社、2013年)などでも紹介して早10年。あいにく筆者は力及ばずで翻訳を実現できなかったが、この度、マガジンハウスから、ここ数年イタリアのマンガの翻訳紹介でひとり気を吐いている栗原俊秀さんの手で、ついに翻訳された。しかも、本書の編集を担当しているのは、『電話・睡眠・音楽』(リイド社、2018年)や『アントロポセンの犬泥棒』(リイド社、2021年)で知られる気鋭のマンガ家で、海外マンガにも詳しい川勝徳重くんである。こんなステキな組み合わせで本書が日本にお目見えしたことが、フィオール作品の一ファンとしてめちゃくちゃうれしい。ということで、今回はこの作品を紹介しよう。

 

『はじめての人のためのバンド・デシネ徹底ガイド』の『秒速5000km』を紹介したページ。ちなみにこの本には日本のマンガ家へのインタビューも収録されていて、好きなバンド・デシネとして、故谷口ジローさんがこの『秒速5000km』を、松本大洋さんが同じ作者の『エルザ嬢』をあげている

 

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物語の舞台はイタリアのとある街。高校生のピエロは友達のニコラといつもつるんでいる。ピエロは学業優秀だが、ちょっと奥手な男子。一方のニコラは勉強こそからっきしだが、ガールフレンドが何人もいるモテ男。ふたりは対照的なコンビを形成している。あるとき、ピエロが住むアパートにルチアという16歳の少女とその母親が引っ越してくる。どうやら父親と母親が離婚し、そのアパートで新生活を始めるということらしい。最初のうちこそ警戒し合っていたピエロとルチアだが、やがて打ち解け、交際することになる。

 

向かいの部屋に越してきたルチアをブラインド越しに覗き見るピエロとニコラ。左ページ2コマ目の上がニコラで下がピエロ(P010-011)

 

数年後、大学で文学を学び、卒論のテーマにイプセンを選んだルチアは、4カ月間の短期留学という形で、ひとり冬のノルウェーを訪れる。その頃にはピエロとの仲はすっかり冷え切り、ルチアにとってピエロは苦痛の種になってしまっていたらしい。ルチアはピエロとイタリアから遠く離れ、「おかげで、私はまた息ができるようになった」とまで言い切る。

 

ノルウェーのホストファミリーに迎えられるルチア。前のシーンの緑や黄とは対照的な青が印象的(034-035)

 

さらに数年が経過する。考古学者となったピエロは、ピラミッドの発掘調査のためにエジプトを訪れている。どうやらルチアとの関係は完全に終わってしまったらしい。彼には今やチンツィアという別の恋人がいる。もっとも、ルチアへの想いを完全に断ち切ることができたというわけでもないらしい。カイロからアスワンに向かう長い列車の旅の最中に、熱に浮かされたピエロはルチアの幻覚を見る。

 

カイロからアスワンへと向かう列車の中で、ピエロはルチアの幻覚を見る(P062-063)

 

こうして物語は、偶然の巡り合わせから、人生の春をともに過ごしたピエロとニコラとルチアの3人のうち、とりわけピエロとルチアに焦点を当て、ふたりの人生のいくつかの瞬間を切り取ってみせていく。青春時代に恋人同士だったふたりは、やがて別れ、それぞれまったく違う人生を歩み、20年近い歳月を経て、かつて初めて会った故郷で再会することになる。

 

数十年の歳月を経て再会する相応に年を重ねたふたり(P118-119)

 

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本書の最大の魅力は何と言ってもその色彩だろう。フランス語圏のマンガ“バンド・デシネ”では決して珍しいことでもないが、本書ではシーンごとに主調色が変わっていく。冒頭のピエロとニコラとルチアの出会いのシーンは初夏を連想させる緑と黄が、続くルチアのノルウェー留学のシーンはそれとは対照的な澄んだ冷ややかな青が、その後のピエロのエジプト旅行のシーンは砂漠を思わせる茶が、それぞれ中心を占めている。

色は単に時間や場所を示す役割を果たしているだけではない。冒頭の緑と黄からは、若いふたりが出会った心の高ぶりや、二度と訪れぬ青春時代ならではの多幸感のようなものがうかがえる。次の青系統のシーンからは、ルチアのピエロに対して冷めてしまった愛情や自分の気持ちをようやく整理できたすがすがしさが、そしてその次の茶系統のシーンからは、ピエロのもやもやした気持ちや後悔の念のようなものまでが感じられる気がするのだ。

もっとも、シーンが変わるたびに、まるっきり色が変わってしまうというわけでもない。興味深いことに、冒頭の緑と黄は、その後のシーンにもちょくちょく顔を出す。あたかもいつまでも人の心につきまとって離れない遠い日の記憶のように。

別れてからというもの、ピエロとルチアはそれぞれ別のパートナーを見つけ、別々の人生を歩んでいくわけだが、折につけふたりは、ふたりが出会ったあの幸せな時代を思い出し、時には電話で連絡を取り合う。やがて20年近い歳月を経て、故郷で再会を果たしたとき、お互い年を取り、立場もすっかり変わったふたりの間に何が起きるのか、ぜひ本書のページを実際に開いて、ご確認いただきたい。人生の美しさと残酷さに、思わずため息をつきたくなるはずだ。

 

 


 

筆者が海外コミックスのブックカフェ書肆喫茶moriの森﨑さんと行っている週一更新のポッドキャスト「海外マンガの本棚」でも、2023年6月23日更新回で本書『秒速5000km』を取り上げている。よかったらぜひお聴きいただきたい。

 

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