縦スクロールコミックの表現に見る「分断」と「統合」

こんにちは、マンバ通信です。

みなさんは「東アジア文化都市2019豊島」という事業をご存じでしょうか。

これは、日中韓の3カ国で文化芸術による発展を目指す都市を選び、1年を通して現代の芸術や文化に関するイベントを実施して、東アジアの国同士お互いの文化について理解を深めて仲良くしようぜという取り組みなんですね。

これまで国内では、横浜市、新潟市、奈良市、京都市、金沢市で開催されてきましたが、今回初の都内開催地として豊島区が選ばれ、今年開催されているのが「東アジア文化都市2019豊島」なんです。詳しい取り組みについてはこちらを見ていただければわかるかなと思います。

今回、マンバ通信では、その「東アジア文化都市2019豊島」のスペシャル事業のひとつとして展開されている「マンガ・アニメ3.0」とコラボし、漫画研究家の泉信行さんに、「ウェブトゥーン」の漫画表現論について書いていただきました。

ウェブトゥーンとは、韓国から広まったWebコミック向けの「縦スクロールコミック」のこと。

書籍の漫画は、見開きやフキダシの配置、コマ割り、ページめくりによる表現法を蓄積してきましたが、独自の形式を持つウェブトゥーンは、従来とは異なる新たな漫画表現を切り開いているのではないかと考え、その特徴と可能性に迫ってもらいました。

 

分断か統合か

In reality, we think the open versus closed argument is just a smokescreen to try and hide the real issue, which is, “What’s best for the customer?” Fragmented versus integrated.

――Steve Jobs, Apple’s Q4 2010 conference

 スティーブ・ジョブズは2010年、Androidの「オープン」システムに対してiPhoneやiOSを「クローズド」システムと呼ぶ議論に触れて、実際は「分断か統合か(Fragmented vs. Integrated)」の問題なのだ、という言葉を残している。

 その後、多様性をもたらすAndroidと、統合されたモデルを目指すiOSのどちらに軍配が挙がるのかは脇に置くとして、「分断と統合」の対置は、電子書籍や電子コミックの世界でも形を変えて見出すことができる。

 そこでは「オープンな」システムのことを比較的「自由な」、「クローズドな」システムを比較的「保守的な」と言い換えてもよいだろう。

 旧来の紙メディアにおける書籍はその形式において、まさに「統合」されたモデルを保証してきた。

 変形サイズの本や、「しかけ絵本」のような遊びのある本を出版することはできても、一般的な書籍はその版型が規格化されている。例えば、よく目にする「A判」「B判」は前者が国際規格であり、後者は日本工業規格(JIS)だ。

 紙全体のサイズには大小あるが、その用紙の比率(1:√2の白銀長方形)を統一することで、紙書籍の流通は保たれてきた。

 特に日本の漫画は、「コマ割り」という様式を「本」に合わせる形で発展してきた歴史がある。その恩恵のひとつとしては、B5判の雑誌に掲載された漫画を小さめのB6判で出版したり、ワイド版とも呼ばれる大きめのA5判や、そしてより小さな文庫版にして出し直したりと、版型を変えても「コマ割り」が保たれることが挙げられる。また、形状が同じなのだから、漫画家の描いた原稿は、基本的にどの出版社からでも商品化ができる。

 そして、共通するかたちがあることで、作者も読者も自国の「漫画のスタイル」を学ぶことが容易になるだろう。それは互いに学び合い、影響を与え合うことで自然な競争も生じ、表現を豊かに進化させていく速度にも繋がっていた。

 そうした「本」の世界に電子書籍の波が押し寄せて以降、主な電子書籍プラットフォームはどのようなスタンスを示しているのか?

 最大シェアを誇るAmazon社のKindleは、電子書籍の「見開きページ」表示に対応するだけでなく、ページのめくり方向(スライド方向)を左右の水平ベクトルに限定している。

 横書きテキストで対応した書籍でのみ、画面を縦にスクロールして読める「連続スクロール機能」を2018年から追加しているが、例えば漫画や画集などでページを「縦」にスライドさせる機能は2019年6月の時点で存在していない。

 こうした事情は、国産プラットフォームである楽天ブックスやBOOK☆WALKERでも同様だ。

※2019年6月調べ

 本来ならば物質的な束縛から解放され、「自由な」インターフェイスが可能な電子デバイスであっても、これらの設計者たちは「紙書籍の形式」を擬似的に再現することを重視しているようだ。つまり現在の電子書籍の世界は、一般に「保守的な」思想を持つ。

 これはもちろん、「電子書籍」と「物理書籍」を同一のデザインのまま並行して出版できる、という「統合」の恩恵があってのことだろう。

 紙の書籍は「背表紙」や「カバー下表紙」「カバーの折返し」など、電子書籍としては不要な印刷面も含んでいる。eBookJapanは背表紙による本棚表示が可能だし、コミックスレーベルの一部ではこうした「紙書籍に特有のデータ」を電子書籍データに加えようとする傾向を持つ。「電子書籍でも紙と変わらぬ内容を見たい」という漫画ファンの声も多いからだろう。

 その一方で、電子メディアの「自由な」側面を推し進めようとする潮流も漫画界には存在している。「デジタルコミック」や「Webコミック」などと呼べるそれらは、新しい漫画の形式を生み出そうとするものだ。

 それは漫画界における「分断と統合」の歴史として見ることが可能だろう。

形式による分断

 Kindleなどの電子書籍プラットフォームは、Webブラウザ対応のビューワーや専用アプリケーションを提供することで、デバイスを横断して同一のデータを「読む」ことを可能にしている(そして当然、紙の書籍に印刷することも)。

 それに対し、デジタルコミックの多くもWebブラウザと専用アプリをビューワーとして利用する。漫画に音声とカメラワークを加えた「サウンドコミック」や、部分的にアニメーションを加えた作品などは、既存の動画フォーマットを利用して発表することもある。

 問題は、そうした作品を商品化し、マネタイズする(消費者の目線で言えば「購入」して擬似的に所有する)際には、会員制のサイトにするか、スマートデバイスの専用アプリを経由させることになるという点だ。

 複数のプラットフォームとアプリに分裂しているという意味では、電子書籍におけるKindleとその他の関係などもそうなのだが、新しい形式のWebコミックの場合はそれぞれ互換性のないビューワーの開発を必要とする。

 まず、Webコミックはその形式による分断をいかに乗り越えるかが課題になると言える。

縦スクロールコミックの歴史

 現時点で、Webコミックの主流の位置を占めているのが「縦スクロールコミック」の形式だろう(参考記事:https://magazine.manba.co.jp/2019/04/05/manpo-tatescroll/ )。

 さらに縦スクロールコミックの形式は、従来の(保守的と言える)漫画原稿のページを縦に並べてスクロールさせるものと、「ウェブトゥーン」と呼ばれるスタイルに分けることができる。

 前者はKindleなどが対応していない読み方を実現することで、「ウェブトゥーン」のプラットフォームと並べて掲載されることもある。

 そのウェブトゥーンとは、韓国ではじめに発達したとされ、現在はアジア圏での作品も多く、日本でも一定の支持を受けている。「自由な」表現が可能なWebコミックの世界だが、ウェブトゥーンは一種のジャンルとして確立した形式にもなっている。つまり、同じ作品のデータを異なるプラットフォームで公開することも容易い。

 だがどちらかというと、日本では長く「保守的な」漫画作品こそが支持されてきたのであり、ウェブトゥーンについては後進国であるとも言える。

 その差について、韓国人の方から直接聞いて知ったことだが、韓国では90年代末から国策で通信回線のブロードバンド化が推進され、日本よりも人口が集中している傾向もあり「高速回線を前提にしたWebサイト」を作りやすい環境が早く整備されたことが背景にあるのだという。

 日本では全国レベルで高速回線が普及したと言えるまで、Webで漫画を発表するには「ブラウザの1画面に収まる画像ファイル(原稿)1枚」を掲載するのが常だった。それに対し、韓国では縦方向に長い大きな画像データを表示させることにも抵抗はなく、この縦長の画像をスクロールして読ませる漫画の文化がウェブトゥーンの元になったという。

 ちなみに現在のウェブトゥーンは、縦スクロールさせる漫画を複数の画像データに切り分け、上から逐次的に読み込みながら連結表示させる「ロングスクロール」方式をとっているケースが多いようだ。

 かつては「縦長の1枚の画像」であったのは、当時のWebページを記述するHTML言語の場合、複数の画像ファイルを縦に並べても「どの画像から先に読み込むのか」を指定できない(また瞬間的に全ての画像を表示しきれるほどの通信速度でもない)、という仕様を避けられないからだろうと思われる。

 では、日本でもブロードバンド化が行き渡ってから「縦長の漫画」が発展したかというと、別の事情が加わる。

 確かに、縦長の画像でコマを割るWeb漫画が増えなかったわけではないが、例えばイラスト投稿サイトの主力であった「pixiv」が2009年に「マンガ投稿・マンガビューア機能を実装」と称して複数画像の投稿に対応。当初は1ページにつき1枚の画像をスライドショー式に表示する仕様だったが、翌10年には「漫画ビューワのデザインを変更」として、画像を縦に並べてスクロールさせる仕様となった(さらにその後、翌11年に前者の「スライド式」と後者の「スクロール式」が選択可能となるが、2019年6月現在はスクロール式のみ)。

 また、投稿サイトではなく商業Webコミックサイトも00年代後半から台頭し、ブラウザで読める「見開きビューワー」が開発されている。

 つまり、アマチュア/商業の双方で、Webデザイン技術の進歩が「縦長の画像ファイルに漫画を描くコマ割り」を不要にしてきたと言える。

 縦に読ませる、という点で日本のスクロール式とウェブトゥーンは同じでも、ウェブトゥーンでは原稿に「ページ」の概念がなくコマが連綿と続くのと異なり、日本のスクロール式は画像1枚ごとに空けられる余白がページ単位の区切りを作るため、結局は(見開きが多用しづらいことを除けば)従来の漫画原稿と同じスタイルのまま描くことになりやすいのだ。

 さらに日本で最大シェアのSNSであるTwitterも、2014年に4枚まで同時に画像投稿できる機能を追加し、これもまたプロアマを問わず「ページ」で区切られた漫画を公開する手段として好まれている(Twitterの漫画投稿から商業化するケースも少なくない)。

 日本では「LINEマンガ」「comico」「ピッコマ」など、韓国資本のサービスがウェブトゥーンを推進している。しかし、それと意識して創作しないかぎり、日本人はウェブトゥーンを描く機会に乏しいのが現状だと考えてもいいだろう。

 また、現在のウェブトゥーンは「絵(コマ)」と「文字(フキダシや擬音)」を別レイヤーで作画することが基本で、これにより言語のローカライズと「コマの再構成による書籍化」が行いやすいようになっている。

 もちろん、ここで言う書籍化は「紙の書籍化」だけでなくKindleなどの「電子書籍化」も含むのだが、韓国や中国では日本と比べて「書籍化」を重視しなくなっている傾向があるようだ。マネタイズを会員制課金システムや広告収入のみに軸足を移す流れは、日本でもやがて優勢となる可能性がある。

ウェブトゥーンのコマ表現

 Webブラウザのみで読まれていた過去のウェブトゥーンと、スマートフォンで読まれることを重視した現在のウェブトゥーンには、表現のスタイルに差も生まれている。

 ウェブトゥーンは書籍化の際に「コマを再構成する」必要があるのだが、そのためにはコマ同士が複雑に接しておらず、断片化されていたほうが再構成作業において都合がよいはずだ。

 過去のウェブトゥーン作家は創作時に書籍化を意識していないため、連結したコマ割りも多く再構成の苦労が偲ばれる書籍化も見られた。しかし書籍化を前提に出発した「comico」作品からはコマ同士に十分な余白を取ったコマ割りが目立ち、書籍化時には大胆な再構成が行われやすい。

 また、スマートフォン向けに制作することの相乗効果であるが、「スマホ画面に1〜数コマずつ表示する」という単位が意識されるようになったと思われる。

 「縦にスクロールして読む」という大きな流れはあっても、実際は「画面に収まるサイズのコマごとに読む」ようなペース配分にして、コマごとの間隔を空けたほうが読みやすいからだろう。余白が広いということは、ウェブトゥーンは一般的に「紙面」に対するコマの密度が低いということでもある。

 ただ、フキダシをコマ内に収めることが基本となる従来の漫画表現に対し、現在のウェブトゥーンはフキダシをコマの上下に大きくはみ出させて配置させることが多い(これには「コマとフキダシを別レイヤーで作画するので、なるべくフキダシの重なりで絵を潰したくない」という事情も絡むだろう)。

 このフキダシや描き文字が、コマ同士の広い余白を繋ぐ役目を担っていることもある。そうすることで「文字→コマ→文字」という上からの順で画面に表れることになり、「セリフと絵の時間差」が演出されやすいのがウェブトゥーンの特徴だとも言える。

 従来の漫画では、「読みの時間差」を演出するためには「ページめくり」の区切りが有効活用されてきた。もちろん、同じページ内でのコマ割りでも時間は演出できるが、見開き全体を同時に見ることが可能なため、完全な時間差とはならない。

 一方、スマホ向けのウェブトゥーンは「画面に収まる1〜数コマずつ間隔を空ける」というスタイルが強調されることで、その広い余白がページ区切りと類似の効果をもたらすものになっている。

 さらに、コマの周りに広く余白が取られるということは、上下左右に隣接するコマが「コマを支える」効果も薄くなることを意味する。確かにデバイス画面のフレームは長方形であるが、ウェブトゥーンのコマは空中にポンと浮いたような感覚で見えやすく、レイアウト的に不安定だとも言える。画面フレームいっぱいに作画された(従来の漫画で言えば「断ち切り」の外まで作画されたような)絵ならばともかく、小さなコマが枠線ごと傾いていると、画面フレームからコマが転がり落ちるような不安感を大きく与えることができる。

『彼女はアオイくん』(久米夏生)第23話より

 「コマを傾かせることによる不安定感」は従来の漫画のコマ割りでも効果的だが、ウェブトゥーンではそれが顕著に現れやすく、逆に平常のシーンのコマ割りでは垂直・水平の枠線で安定させないと意図しない効果まで現れてしまいやすい。

 余白を広くしたウェブトゥーンにおいては、変形コマや傾いたコマは特別な演出になりやすく、意図しないかぎりは安定した四角形のコマが好まれるという指摘もできるだろう。

ウェブトゥーンのアングルと視点

 従来的な漫画のコマ割りを特徴づけるのは、コマやフキダシを読み進めていく方向性、「視線の流れ」が様々な効果と絡み合っているという点にある(※泉信行「私たちの気付かない漫画のこと」第4回などに詳述。また、映像表現との対比については、泉信行「漫画と共に歩んだアニメの表現――運動、カメラアングル、描き文字、集中線」[高瀬康司編『アニメ制作者たちの方法』フィルムアート社、2019年]で論じている)。

 そして視線が流れるということは、「視線が傾く」ことでもある。例えば、私たちが「大きな壁を正面から見ている」時、目の前にある壁は、傾いていないと感じるだろう。

 では、そこから視線をずっと左へと移してみると、壁は「斜めに傾いている」と見えるはずだ。もし絵を描いた壁であれば、「斜めから見た絵」がそこにある、ということになる。

 これと同じことが、漫画の紙面上でも起こる。日本の縦書きの漫画ならば、ページの右上のコマから読み始め、フキダシ内の改行やコマの移動によって「左を見る」という傾いた眺め方が繰り返される。ページめくりやコマの折返しで視線の傾きはリセットされる(もしくは逆向きになる)が、その頻度としては「左を向く」視線が漫画を読む上で優勢となる。

 すると主な効果として、「顔を左(左斜め)に向けたキャラクター」は読者と寄り添うように、「顔を右(右斜め)に向けたキャラクター」は読者の目線と向かい合っているように感じやすくなる。さらにこの効果がコマ割りのなかで合わさると、「前者のキャラクターが視線を向けているもの」が「後者の顔」であるような錯覚にも繋がるだろう。

 これは映画のカメラワークの手法で言えば、「主観ショット」に似た効果であって、映画では「何かを見ている人物」を示唆した後、その目線の先を正面から撮った映像(対象が人物で、向かい合っているのであれば正面顔)を次に出すことで「見たもの」を観客に伝える……といった演出になる。

 漫画では、こうした「映画的カメラワーク」を応用できるだけではなく、漫画的な「アングルの錯覚」を用いることでも、キャラクターの視点が生み出されるのだ。

 左向きのキャラクターが視点の「主体」、右向きのキャラクターが視点の「客体」として知覚されやすいというのは、「漫画」と「映像」でその効果が異なる要素の好例として挙げることができるだろう。

 ただし、縦スクロールで読むウェブトゥーンの場合、フキダシやコマは(改行の)左方向ではなく、画面の左右・中央を「蛇行」するように配置されるのが一般的だ。そもそもハングルや中国語からローカライズされていることが多いウェブトゥーンは、翻訳されている場合、元々のフキダシのセリフが横書きになっている(ハングルも中国語も縦書きできないわけではないが、現代の韓国と中国の出版物は横書きが原則)。

『外科医エリーゼ』(原作 yuin /漫画 mini / KIDARIENT)第4話より、中国語版と日本語版

 縦書きに翻訳する場合、コマもフキダシも左右を並び替えなければならない。そのため「左右に並べたフキダシ」は珍しく、前述したような「コマの上下」に配置されたフキダシや、「斜めに蛇行する」フキダシが多用されているようだ。ウェブトゥーンのコマ割りは、縦に読むという点で「4コマ漫画」と近そうではあるが、日本の4コマ漫画はフキダシを左右に並べたコマが一般的な点でもやはり異なっている。

 ウェブトゥーンはフキダシだけでなく、小さめのコマでも左右ではなく「斜め」に連続して配置させることが多い。そのため、縦書きの日本版でも、横書きの韓国・中国版でも、同じ「蛇行するコマ割り」が通用するのだろう。

 するとウェブトゥーンにおいては、従来の漫画の特徴でもある「アングルによる視点の効果」はかぎりなく薄くなると言える。左向きのキャラクターも、右向きのキャラクターも、映画と同レベルの効果(立ち位置を決めることによる立場の演出など)しか持たなくなるはずだ。主体と客体は、左右よりも「手前と奥」の奥行きなどで演出されることになるだろう。

 しかし、かといってウェブトゥーンの視点の表現が、映画やアニメと変わらなくなるわけではない、と考えられる。

 映画との差で言えば、ウェブトゥーンのキャラクターは「絵」の表現であるし、アニメとの差で言えば、キャラクターの声は耳で聴くものではなく「目で読む」ものだ。

 まず、アメリカのコミック作家であり漫画研究家でもあるスコット・マクラウドは『マンガ学』において、「写実的な人物よりもシンプルな絵で描かれたキャラクターは、読者に近い存在になる」という旨のことを述べている。写実的な映像は、私たちが現実世界を見るのと同じ「目で見る世界=客観」を表しているが、絵は空想の世界や私たちが内観する「自己イメージ=主観」に近いはずだという認知学的な知見に基づいた主張である。

 それは、アニメの音声にも同じ指摘ができるだろう。アニメキャラクターの声は(アニメ的に誇張された声質である場合も多いが)現実の耳で聴く「他者の声」なのに対し、ウェブトゥーンのセリフは読者が自分の内部で「読む声」であり、しかも全てのキャラクターのセリフは「自分ひとりで読む」ものでもある。

 このように整理すると、ウェブトゥーンにおける視点の効果は、映像作品とも異なるし、従来の漫画とも異なることになる。

『外科医エリーゼ』(原作 yuin /漫画 mini / KIDARIENT)第54話より

 従来の漫画よりは「主体と客体」がはっきりとせず、向かい合ったキャラクターも均等に眺めるような感覚となりやすいが、かといって全てを「客観的に感じている」とも断言できない。

 むしろどのキャラクターとも主観的に寄り添いつつ、しかし左右に目を配るように(蛇行するコマの読み方と同じように)見守る関係が生まれやすいのではないだろうか。コマが斜めに配置され、目線の蛇行が繰り返されやすい、というだけでも映像との差異は生まれるはずだ。

 そこから、従来の漫画だからこそ生まれる感性と、ウェブトゥーンだからこそ生まれる感性を分けることも可能なのではないかと思う。

 ウェブトゥーンは現在、「分断」に向かいかねないデジタルコミック界において、ほぼ唯一「統合」しうるモデルを確立させながら、再構成を要するものの「従来の漫画との架橋」の可能性を残したジャンルでもある。

 その趨勢は未知数な現状であるが、すでに漫画という文化の大きな一角を占めるものとなっているのは間違いないと評せるだろう。

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