アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(5)三つの顔

2016/12/21 4:58

 マンガ版「この世界の片隅に」の第15回、199月のこと。周作はうっかり家にノートを忘れ、すずが届けに行こうとする。普段着のまま出ようとするのを見咎めた径子にうるさく言われて、すずは着替えて白粉もはたき、すまし顔で出かける。着替えた服は、やはり径子にうるさく言われて着物から仕立て直した笹模様のもんぺなのだが、これは周作にというよりは径子に気を遣ってのことかもしれない(以来、すずのお出かけの服はきまってこの笹模様だ)。

 鎮守府に来たすずはおすましした標準語の口調で「帳面をお届けに上がりました」と一礼して周作にノートを差し出す。出迎えた周作は「えっ」と驚いてからようやく「ああすずさんか」と気づく。

 このやりとりを描いた一コマは、読者にちょっと謎をかけている。周作は、一瞬相手がすずであることがわからなかったらしい。では、なぜわからなかったのか。家では見せないかしこまった振る舞いゆえか、それともおめかししてきたせいか。もしかして周作が見違えるほどきれいに見えたのではないか。このように、すずの身になって予想を立てた読者だけが、次のコマですずがずっこける理由を理解できる。周作は付け足す。「えらい白いが具合でも悪いんか?」

図1:(『この世界の片隅に』中巻 p.30)

 アニメーションとは色でも語るのだなとつくづく思ったのは、この場面だった。すずの白粉の付け方がもう、歌舞伎役者かと思うくらい真っ白なのである。首筋にわずかに残った地肌の色とのコントラストを強調しているため(行き届いた色指定だ)、明らかに不慣れで塗りすぎていることがわかる。マンガではこれほど白いとは思わなかった。

 そしてアニメーション版では、すずは周作の勤める鎮守府軍法会議まではたどりつけない。鎮守府の手前、眼鏡橋を過ぎたあたりから、すずのまわりにはいかにも規律正しい帝国海軍の所作をする軍人の姿が見られるようになり、門の前では捧げ銃をした衛兵が見張っているからだ。結局、すずは構内には入らず、眼鏡橋のすぐそば、鎮守府の入口である門の前で周作を待っている。幽霊のような白い顔で所在なさそうに立っているすずの姿は、軍人の行き交う往来で明らかに浮いている。当時、帝国海軍の拠点である鎮守府の構内は、一般人は簡単に出入りすることはできなかった。アニメーション版は、このことを意識して演出されているのだろう*1

 夕方、映画でも観ようと街に出たすずと周作は、通りが水兵でごったがえしていることに気づく。どうやら大きい船が帰ってきたところらしい。陸に上がったばかりの水兵たちがみな長袖のセーラー服なのに対して、録司をやっている周作は半袖で、戦地で戦う者との服装の差が明らかに出てしまっている。束の間の上陸を楽しもうとしている水兵に気を遣うように周平は言う。「ここはまあゆずらんとの」。二人は結局映画をあきらめて、堺橋の上で我が家のある山側の方角を見ながら語らう。

 アニメーションでは、この周作とすずのエピソードからほとんど間をおくことなく季節は移り、すずの幼なじみである水原が来訪する。水原は、フィリピンから呉に帰港した青葉を降り、入湯許可をもらってわざわざすずを頼って来るのだが、マンガの読者はその姿に少し驚く。晴美が言うように彼の顔は「冬なんに真っ黒に日焼け」しているからだ。周作の顔の色さえも、水原の前ではやけに生白く見える。マンガではこれほどの日焼けとは思わなかった。

 日焼けだけではない。海上で鍛えた水原の体躯は、円太郎が不在で女手の多い北條家では明らかに存在感が大きい。船暮らしが長かったせいか声も大きい。その大きい声で、すずに広島弁で遠慮なく話しかけるから、すずもついつい広島弁で応酬する。そのことがかえって、彼らの親密さを感じさせる。周作はあとですずにこう言う。「いや、珍しかったで。あんたでも強気の時があるんじゃの」*2

 マンガ版では、径子親子やサンの姿が描かれているコマに続いて、周作が戦争の様子をきく。「青葉はどがいなですか」「はあ……マニラで負傷して漸う戻って来ました/ええ艦なのに、またしても活躍も沈没もせずじまいじゃ/同期もだいぶ靖国へ行ってしもうて」少ないことばから、水原自身の受けたであろう体験の激しさが伝わってくる。水原は、次のコマで周作のいる側から少し目をそらし、ぽつりとこう言う。

「のう周作さん 死に遅れるいうんは焦れるもんですのう」。

図2:(『この世界の片隅に』中巻 p.80)

 アニメーション版では、この場面に少し演出を加えている。まず、「青葉はどがいなですか」というセリフの前後で径子親子とサンをさりげなく部屋から去らせている。その結果、会話は、周作と水原の間だけで交わされる、密やかな調子になる。そして、マンガでは一コマで言われている水原のセリフの後半で、次のようにカットが割られている。

カット785「のう周作さん 死に遅れる言うんは」(目をそらす水原の顔)

カット786「焦れるもんですのう」(周作の顔)*3

 話し手の一つのセリフに対して、ただ話し手を写すのではなく、まず話し手の顔を写し、次に聞き手の顔を映し出す。そのことで、聞き手である周作の表情の変化、反応がよりはっきりと表現される。それだけでなく、一つのセリフの中で、水原の日焼け顔と周作の生白い顔が対比される。海の上で死の間際にいる者と、陸の上で書類を扱う者の会話。

 このあと、周作は、すずと水原のために一夜を過ごす機会を設えてやる。それは、彼らの間で親しく交わされていた広島弁のせいかもしれないし、再び死線へと旅立つ水原のことを思いやってのことかもしれない。しかし同時に、周作と水原の顔の対比は、つい前のエピソードで周作が見せた、水兵たちへの引け目にも似た気遣いを思い出させる。「ここはまあゆずらんとの」。

 そして、後日すずが周作を問い詰めることばもまた、周作の思いやりのみならず、彼の行為に潜む「ここはまあゆずらんとの」精神に宛てて発せられているのかもしれない*4

「夫婦てそんなもんですか!」

*1 片渕監督は第一門にあった番兵塔についても詳しく下調べをしている。以下の記事を参照のこと。
WEBスタイル 片渕須直「1300日の記録」第33回「キリがない」 

*2 アニメーション版では、このとき周作と水原は初対面ではなく、周作は知らぬうちに水原と会っている。すずに縁談を申し込みに来た日、帰り道で迷った周作と円太郎は「親切な水兵さんに教えてもろうたんじゃが」と言っているからだ。もしかしたら水原は、すずを娶りに来た周作たちに親切人めかしてわざと違う道を教えることで、小さな復讐を成し遂げたのかもしれない。むろん、水原はそのことを覚えていながら、周作の家に来たのであろう。

*3  「この世界の片隅に」劇場アニメ絵コンテ集(双葉社)p.365

*4 原作では、橋の上の語らいと水原の来訪との間に、リンにまつわる重要なエピソードが挟まれている。原作におけるリンは、すず、周作、水原の関係を考える上で非常に重要な役割を担っている。原作とは対照的に、アニメション版ではリンのエピソードが割愛される一方で、ここで述べたように、原作では離れていた二つのエピソードを隣り合せる。その結果、わたしたちは、すずの白粉顔と水原の日焼け顔のあいだに、周作の顔の生白さを感じることになったのである。

『アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す』の一覧
(1)姉妹は物語る
(2)『かく』時間
(3)流れる雲、流れる私
(4)空を過ぎるものたち
(5)三つの顔
(6)笹の因果
(7)紅の器
(8)虫たちの営み
(9)手紙の宛先
(10)爪
(11)こまい
(12)右手が知っていること
(13)サイレン
(14)食事の支度


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細馬宏通
1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。声と身体動作の関わるいろんなことに興味を持っています。高齢者と介護者の声とからだの動きをとらえ直す「介護するからだ」(医学書院)、古今東西の歌のきこえ方を論じる「うたのしくみ」(ぴあ)の他、「今日の『あまちゃん』から」(河出書房新社)、「ミッキーはなぜ口笛を吹くのか」(新潮選書)、「浅草十二階(増補新版)」「絵はがきの時代」(青土社)など著作多数。最近は雑誌「ユリイカ」をはじめあちこちでマンガについての論考を書くようになりました。バンド「かえる目」では作詞・作曲とボーカルを担当。