アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(10)爪

2017/01/05 12:07

 爪のあるなしは、登場人物の印象を決定づける。たとえば、萩尾望都描く「ポーの一族」のエドガーやアランの指先に爪があったら、彼らの散らすバラは全く異なった意味を持っただろう。山岸涼子「日出処の天子」の厩戸皇子が爪を持っていたなら、その手先から発せられる霊性はまるきり失われてしまっただろう。逆に、岩本ナオの「金の国 水の国」から爪を取り去ってしまったら、サーラやナランバヤルの手先に宿るこの世とのつながりは失せ、A国とB国はのっぺりとした平面になってしまうのではないだろうか。

 一つのキャラクターが常に爪のあるなしを保っているとも限らない。たとえば手塚治虫の描くブラック・ジャックは、ふだんはゴム手袋のような爪のない手をしているが、ときおり指先に爪が描き込まれ、繊細な力の方向性を示したり、医者としての威厳を感じさせることがある。さまざまな作家がどの作品のどんな登場人物にいつ爪を描くかを子細に論じていけば、おそらく一冊の本が書けてしまうだろう。

 では「この世界の片隅に」はどうか、と言えば、みな、爪がない。

 けして手の描写が簡素なわけではない。人物の手は、ときに丁寧すぎるほど指の関節がはっきりと描かれているし、それは少女マンガでしばしば見られる細めにデフォルメされたものでもない。たとえば、次に示す一コマで、鉛筆を持つすずの右手は作者のスケッチ帖から抜け出てきたかのような端正な輪郭をしている。

(図1:『この世界の片隅に』上巻 p. 37 鉛筆を持つすずの右手)

 すずだけではない。周作にせよ水原にせよ、その手はしばしば確かな関節を伴っていかにも人間らしく描かれているのに、なぜか爪がない。そのせいだろうか、マンガの画面に、まるでこの世から人の手の輪郭を写し取ってきて、手のぬけがらを紙の上に置いているかのような、おばけめいた感触がうっすら感じられる。これは、爪のない人びとの棲まう「世界」なのだ。

 その爪のない人の世界に、異形の者が紛れ込んでいる。「ばけもん」だ。ばけもんがばけもんであることは、指を見ればわかる。すずに親切めかして望遠鏡を差し出すその指には、この世界ではけして見ることのできない爪が長々と生えているからだ。

(図2:『この世界の片隅に』上巻 p. 9 望遠鏡を差し出す手)

 もしすずに「手袋を買いに」の帽子屋さんほどの観察力があれば、差し出されたその手を見てすぐに、おやおやと思ったことだろう。ところが、すずは男をあやしむどころか、「ありゃ!すみません」と何の疑いもなく男の肩に乗る。あれだけ端正で爪のない手をしていながら、相手の爪のあるなしが見えないのか、もしくは見えていても気にも留めないのだ。

 まんまと籠に放り込まれたすずは、やはりこのばけもんに捕まった先客、周作がいることに気づく。どうやら周作もまた、爪のある指をあやしまなかったらしい。ただし、すずとは違って、それは周作の人のよさを表しているのかもしれない。なぜなら周作は、海苔の夜を見て気絶してしまったばけもんのために、そっとキャラメルを握らせてやるからだ。「ばんめし抜きは気の毒なけえの なんぼばけもんでも」。小学生には出来すぎた情けだ。

 キャラメルを介して爪のあるばけもんの手と爪のない周作の手が、ひととき触れあう。その様子をすずは無言で見ている。

(図3:『この世界の片隅に』上巻 p. 14 ばけもんにキャラメルをやる周作)

 それでもなお、すずはこう問う。「あの人ばけもんじゃった?」 ばけもんと周作の爪のあるなしをまじまじと見比べてもまだ、すずは爪のある手をばけもんとはあやしまないのだ。これはもはや、単に「ぼうっとしている」という理由で説明のつくことではない。どうやらすずは爪のあるものを、よそものではなく自分と同じ世界に棲まう近しい存在だと感じているらしい。

 すずと爪のあるものとの特別な結びつきは、第36回、20年7月の場面でよりはっきりする。すずは他の者には見えないサギを幻視するのだが、このとき、すずは、サギと無言のやりとりをするかのように、縁側から裸足で飛び出す。マンガではすずの爪のない足とサギの爪のある足とが上下のコマに連なる。アニメーションでもこの対比は二つのショットとして再現されており、まるで異なる世界のいきものがステップを踏んで互いに踊っているかのように見える。

 「この世界の片隅に」におけるサギが広島、そして水原と結びつく特別な存在であることは、すでに連載第4回で述べたが、見方を変えるならば、サギは爪のないすずの世界にひととき表れた、爪を有する世界の使いと見ることもできるだろう*1。

(図4:『この世界の片隅に』下巻 p. 64 すずの足とサギの足)

 ばけもん、サギ。すずと出会うこれら爪あるものたちは、どのような世界から来たのだろう? ここで彼らがいずれも鉛筆で描かれていることを思い出そう。彼らはいずれも、すずの「かく」力によって描かれたもの、すなわちすずの右手から現れたものたちだ。

 マンガの21年1月、かつて出会った広島の橋の上で、周作とすずは語らっている。すずはそでをつかんで、この作品でもっとも感動的なことばを口にする。しかし、周作のそでだと思ったその腕の先をよく見ると、指には爪が生えている。読者はまるで「手袋を買いに」の帽子屋のようにおやおやと思う。これはマンガの最初の回で見た、あの場面そっくりではないか。

(図4:『この世界の片隅に』下巻 p. 140 ばけもんの手を持つすず)

 しかし、もはや大人であるすずは、この爪の生えた黒服の男を相変わらずあやしみもせず、「すみません」と間違いを詫びてから周作にこう言い訳をする。「同じような黒い服じゃったけえ…」。周作を爪あるものと見まがうほど、すずはぼうっとしていたということなのだろうか。いやむしろ、爪あるものとの間に境を設けないすずの力は、いまも健在なのだと見るべきなのかもしれない。そしてそのことはすなわち、すずの右手の力がこの世界に現れていることを意味している。

 アニメーションでは、この部分のやりとりは少し変更されている。周作とすずが語らっている間に黒服の男は通り過ぎてしまい、すずが語らいを止めてふと向こうを見ると、男は行く先を向いたまま、爪の生えた手をこちらに向けて振っている。籠の中から現れたワニに観客がはっとした瞬間、画面には幻の右手が現れる。アニメーションは、マンガとは別のやり方で、爪ある男の来歴を示しているのである。

*1 ちなみに、この世界のサギは、まえあしの真ん中に生えている爪が櫛状になっており、羽づくろいに使うそうだ。(世界淡水魚園水族館HP)

『アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す』の一覧
(1)姉妹は物語る
(2)『かく』時間
(3)流れる雲、流れる私
(4)空を過ぎるものたち
(5)三つの顔
(6)笹の因果
(7)紅の器
(8)虫たちの営み
(9)手紙の宛先
(10)爪
(11)こまい
(12)右手が知っていること
(13)サイレン
(14)食事の支度
(15)かまど
(16)遡行


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細馬宏通
1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。声と身体動作の関わるいろんなことに興味を持っています。高齢者と介護者の声とからだの動きをとらえ直す「介護するからだ」(医学書院)、古今東西の歌のきこえ方を論じる「うたのしくみ」(ぴあ)の他、「今日の『あまちゃん』から」(河出書房新社)、「ミッキーはなぜ口笛を吹くのか」(新潮選書)、「浅草十二階(増補新版)」「絵はがきの時代」(青土社)など著作多数。最近は雑誌「ユリイカ」をはじめあちこちでマンガについての論考を書くようになりました。バンド「かえる目」では作詞・作曲とボーカルを担当。